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介助者ノートより

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(1987.1.1 A)
 元旦も来てしまったAです。どうも、おせちをごちそうさまでした。
 今年は少しはマジメな良い子になって、皆さんとセメテ話し合えるスタートラインくらいまでにたどりつかねばいけないなと思います。
 スタートラインにたどりつけるまでには、まだまだ間がありそうですので、それまでは、またひたすら「読む」のみの人になると思います。「著者」の皆様今年もヨロシク。

(1987.1.2 A)
 先生と雪、雨、あられの中ぬれながら、初詣に行きました。さむかった。

(1987.1.3 S)
 今年もまたメシを食いにきたSです。今日またバイトあけで、今年もバイトとは縁が切れそうにもありません。実は今年社大の四年になってしまいます。本当に因ってしまいまして、これからどーしようかと考えているわけです。師いわく「色男、金と力はなかりけり」実は色男でもないのに金も力もない。まして、車はファミリーカーで親のもの、しかもレポートはまだ書いてない、単位がアブナイ、頭が多少足らないかもしれない。こうなれば残された道は唯一、右翼よろしく、根性あるのみ、「めげず、くじけず、くたばらず」この精神で今年はがんばりたいと思います。
 ちなみに私は、根性、努力、正義、愛という言葉をアテにしてません。どちらかというとキライです。誰もが知ってるようでそのくせよくわからず、容易に人をだまして自己を正当化するからです。でもきっと今年も、根性とか努力とか正義とか愛に頼って生きていくのだろうと思います。やっぱり、めげず、くじけず、くたばらず、しかないでしょう。またおなかがすいたらきます。

(1987.1.4 I)
 私は今、男性と二人きりっで、密室の中に寝ているわけだ。よく考えてみると、これは初めての体験だ。ん? たぶんそうだろう。いや父親は別だ・・・と妙なことを考えている私はIです。すごーく久々です。皆様、お元気でいらっしゃいますか?
 夜、遠藤さんに「Iさんと話すとどうしてもシビアな話題になる。君は私以上にまじめだから」とか「何故か話がかみあわないねえ、もっと話したいねえ」と言われてしまいました。私はいつも、うんうんと聞くばかりで自分の方から正直にさらけ出すことができないからですね。それとも、あったかみに欠けるのかな、やっぱり。今、冷めてると思います。どうしても口が重くなって、根暗の道へと進んでいる自分が恐い、なんて。
 久々にここに来てノートを読んで、遠藤さんと話して、やっば来てよかったと思います。いつもそうです。電話がきて、断わったりするときはなんて薄情なヤツと自分をちょっぴり責めながらもどこかで電話がくるのを拒んでいる。でも、来て後悔したことは一回もありません。いつも、よかった、よかったと思いながら家に向かいます。 憲子さんと遠藤さんのこと、私が何ヶ月ごぶさたしている間にいろんな人が書いてますけど、昨日遠藤さんが「あの人は私が歩くことができて、いろんな活動をやっている時のきらめきにひかれたんだ。今のように仕事をやめてしまうことなど考えにもおよばなかったろう。結局、ありのままの私を好きになったんじゃない」というようなことを言っていました。
 では、自分はどうだろう。人間のありのままの姿にはれる事って本当にできるのかな。少なくとも今の私にはできていないと思う。でも、そんなもんじゃないのーという気もするし。だって好きとかきらいって感覚的なものってかなりあると思うし、一度好きだって思い込んだら、理屈ってどこかへいっちゃうんじゃないかと思う。

(1987.3.3 H)
 ノートをずっと読んでると、みんな本当にいろんなこと書いてておもしろい。私は驚くべき筆不精で、書くことが嫌いだから、みんなのノートにコメントしたいと思いつつ、そのままにしてしまうのです。残念。みんなで話す機会がほしいね。
 恋愛観なんかもいろいろとびかっていますが、それに関してちょっと。実は私、丸四年おつきあいしていた人がいて、昨年の暮れにその人と大ゲンカをやらかしました。原因は私が彼にほとんど相談することなく、就職を決めたことにあったようです。彼に「就職決めた」と報告したところ、その返事がプロポーズだったのです。私はまったくそのつもりはないし、"これからやりたい仕事ができる”という気持ちだったので、なぜ彼が結婚の話など持ち出したのか、さっぱり理解できませんでした。彼も私が何も相談せずに就職を決めたことがひっかかっていたみたいでケンカになったのです。結局、お互いの生き方とか、その他に対する価値観の違いが大きく、今までずっとそのへんをごまかしてつきあってきたことに気づいたということです。
 私が思うに、男女の関係がつまるところは結婚にたどりつくものではないと思います。社会的に「結婚」という形をとる必要がある場合もあるとは思うけど、本質的には、そういう形をとることが男と女の関係に不可欠なものとは思えない。むずかしくてうまく言えないけど、私と彼について言えば、今の時点で結婚を言い出すことが、すごく安易ではないかと思うのです。最終的には今までとはちがったかたちでつきあっていくことに二人で納得しましたので報告します。
 きっと私の思う100分の1も書けてないと思うので、くわしい話は本人の口からきいてください。こういう体験もしてみるもんだネ。だんだん世の中、人間関係が面白くなってくる・・・。

(1987.3.20 S)
 今日はやけに静かです。遠藤さんと私だけだもんネ。こんなのも初めてです。いつもは信くん、慧くんのお相手でノートに書くヒマもないから。

(1987.6.5 T)
 昨日、遠藤さんに「Tはどうして介助に入ってる?」と聞かれてドキッした。これは僕だけの問題ではない。介助者全員がさらされている問題である。なぜ我々にこの問題がつきつけられるのか、今まで個々の胸の内の問題であったはずのことが、介助者全体の共通の問題になってしまったからだ。この変化において、"契機”となるものを我々は抱え込んでいる。

(1987.6.9 O)
 今日は午後6時頃から雨だった。
 僕は雨が好きだ。
 雪も好きだ。
 嵐や吹雪はもっと好きだ。
 悪天候は本当に好きだ。
 失う物が少なくなればなるほど
 見えなかったものが自分にも相手にも見えてくる。
 そして、それが原点だ。

(1987.6.18未明)
 長いあいだ介助に加わってくださった森田康志さんが亡くなられました。

(1987.6.18 A.K)
 若き青年の肉体はくちるとも、その志は後に受け継がれん。
 君死にたもうも、我願う。抱けき理想の実現を。
 永遠の青年となりし男の生涯に拍手を送らん。
 御冥福をお祈りします。

(1987.6.18 遠藤)
 モリタ
 御冥福なんて祈らない!
 そうしたいと思うなら、いつでもこっちの世界に出ておいで。
 ぼくらは絶対、きみを殺しはしないよ。
 きみが死んでしまったという事実まで含めて、すべて生かしあって、生かしきって、生きていってしまおうと思うから。必ず・・・

(1987.6.25 S)
 何だか一週間があっという間にすぎた。この一週間ふっといつの間にか森田さんのことを考えていた。そうすると、「何で生きているんだろう」という莫然としたことが思い浮かんできた。でも、やっぱり私は生きている。先生と話していたら、ここから出発しなければいけないといっていた。
 6月13日に初めてお見舞いに行き、その時あまりに森田さんが変わっていたので(森田さんはしゃべれなかった)帰ってきた。あの時はあまりにショックで・・・
 一日考えて6月15日にもう一度行った。私はこの一年間森田さんとはあまりしゃべらなかった。はじめの印象がちょっと悪く、でも今から思うと何か”こわかった”のではないかと思う。森田さんの行動、考えが私を何か圧倒していた。けれども、介助者ノートに書いていること、また、そのことに対する介助者の反応(答え)を読んでいくにつれて、何か私の中で変化していった。自分の殻が少しずつ溶けていく感じで・・・。やっぱり自分を人にぶつけていくことって素敵だと思った。二十歳すぎて、こんなことを認識するなんて、ちょっと恥ずかしいけど、それは事実だ。私はそれを伝えたかった。それが今の私のできることだと思った。森田さんに対して。心から。
 「私が今感じていること。それは自分の中の硬い殻がとけてきているということ。その殻をとかしてきたものは介助者グループの人。素直に他人に自分をぶつけることって、すばらしいってこと。そうすることが他人を受け入れること、理解することのはじまりだってこと。それが本当の出会いってこと。そうしたら森田さんのように広くてあったかい人になれるような気がする。介助者グループに入ってもう一つよかったと思うこと。男の人って、とても繊細でいろんなこと感じていることがわかった。これからは人を本当に好きになれそうな気がする。森田さんは、私にとっていつも私の中の岩を砕いてくれる大きな波のような人です。」
 手紙にはそう書いた。はじめ少しだけ、森田さんに無理してもらって、ホワイトボードに私が書いたのを読んでもらった。苦しいのにベッドを起こして、私の字を片目をつぶりながら、両目で見ながら、いろいろ工夫して焦点を合わせて何回もじっと読んでくれた。(森田さんはのどを悪くしてしゃべれなかった。耳も聞こえにくかったらしい)はじめて森田さんと心から思っていることを伝えて交流できた。うれしかった。私の思っていることを伝えたいという気持ちがあったが、森田さんに、森田さんが存在し、そのものを、与えたという事実を知ってもらいたかった。おそらく森田さんは多くの人とこのような交流をもったにちがいない。
 6月17日に再び病院へ行った。観察室にいた。今から思うと面会謝絶だったのに、御両親が入れてくれた。はじめ意識があると聞いたので、私は森田さんや御両親に聞いてもらいたかった。そして森田さんが今したくて、できなくて私にできることを考え、お父さんの肩をもんだ。夕日がとてもきれいだった。けど、私は口に出さなかった。そうしているうちに森田さんは具合いが悪くなってきた。私はたぶん自分を安心させるために森田さんの手に触れあったかいのを確かめてから先生のうちに向かった。
 6月18日 電話があった。この日は先生や憲子さんたちと一緒に森田さんに会いに行った。もう昨日の森田さんではなかった。その日、そして、お葬式の日、たんたんとすぎていった。なぜか私たちを見守っていてくださいとかそういうことばはでなかった。
 森田さんが私たちに与えてくれたものを大事にしていきます。きっと。大事にして、私は人と人との関係をちゃんとつくっていくから。がんばるから。介助についても、もっと考える。あと、森田さんが残してくれた介助者ノートもつづけていく。(私ははじめていく)、それから昔のノートもみて、もっと得られるものを探していくから。など思ったが、それは森田さんにいったのではなく、自分にいったような気がする。森田さんがいないなんて信じられなかったから。
 今は何だか「何で生きているんだろう」という不思議な感じがあって、自分がやらなければならないことや、やりたいことが、そこらへんにばらばらになっているような気がする。」でも、はやく、そこから何か創っていきたい。

(1987.7.25 Y)
 暑い。いつもの夏より暑い。今年は小学校のころのような、虫とり網と白い帽子とお昼寝とすいかと水遊びと夕暮れの風と夕焼けをホーフツさせるような夏を過ごしたい。・・・なんて、夏休みの予定がまっしろだから、そんな言い訳をしてみただけです。でも、自分で決めてまっしろにしたんだけどね。
 最近、ブルーハーツというバンドの曲を聞いて、イイナーと思ってます。「裸の王様」っていう歌では、"今夜ぼくはいってやる 王様ははだかじゃないか!”とアホのようにくりかえしてるんですが、裸ということ、いらないものを、さも美しいように着ぶくれしてしまっていること、なんか考えちゃう。恋人の前だけ、お風呂に入るときだけ、裸になれればいいのかな。どこまで、人前で裸になれるのかね。公衆の面前で裸で歩けばつかまっちゃうってことは、やっぱり裸になるってのは悪いこと、隠すべきことかな。 自分で大切にしとかなければならないことってのはあると思う。それは人にとっては大したことじゃなくてもね。でも、"あたしはこんななのよ”と言ってすっばだかになるのも勇気がいるよね。どう着飾っても、自分は自分でしかないし、自分が自分にならなければ、だれが自分になるというのでしょう。
 どうすればいいのか、よくわかんない。自分の弱さを武器にはゼッタイしたくない。できれば強く生きていきたい。でも、それは自分にウソついていくことかなあ。そう思ってるのは確かにあたしなんだけどなあ。

(1987.8.19 S)
 今日は、Yちゃんが持ってきたケーキと、先生のお母さんが持ってきたケーキと二つもいただいてしまった。私はいつもタイミングよくやってきて、ケーキとかヨーグルトとかごちそうになる。ラッキーだ。日頃の行ないがよいせいだろう。
 今日、中野に行く途中、お母さんにだっこされた赤ちやんがいた。とてもかわいかった。その赤ちゃんが、先生の方に向かって、にこっと笑って、先生にさわろうと手をのばした。何回も。
 先生もこういうのははじめての出来事で、「自信がついた」といっていた。私もなんだかとてもうれしかった。周りの人も、ほほえましそうにしていた。(おっかなそうなおじさんが、ほほえましそうにしていた)

(1987.10.4)
 さっきワープロを打っていた滋さんが、いきなりぶったおれた。頭のオデコをちっと傷つけた。
 「俺はこうして死んでいくのかもしれない・・・ある日突然バッタリと」
 「そうしたら(介助者は)おまえは何やってたんだ、と言われちゃいますよ」
 「いいんだよ。今まで元気にしゃべってたのに、いきなりぶったおれたんだから、間に合わなかった、と言えばいい」
 「ハハハハ・・・・・・」

(1987.10 O.T)
 作文「えんどう先生の家とおふろ」
 ぽくにとってせんせいのいえのかいじょは、おふろに入るのににている。はいるまではめんどくさいけど、はいるときもちいーし、あがったあと、またはいろうとおもう。こんど、せんせいのいえでおふろにはいろうとおもう。

(1987.12.13 N)
 今日は朝から雪が降りました。そして意味もなく、電車の中で思わず涙ぐんでしまいました。
 論理は時に論理への愛であって、必ずしも生きている人間への愛ではない。
 じゃあ生きている人間への愛って何なのでしょう、とうだうだへんなことをこのごろ考えてしまいます。
 子どもでも産めばわかるのかなあ。たぶん、自分の子どものためなら自分は死んでもいいと思えるだろう。
 女の人はわかっていても、わからないふりをすることが時々ある。感覚的に何かを感じたりするのだ。男の人はどうなのだろう。

(1987.12.28 N)
 私が何故ここにくるのかということをいつか自分なりにきちんと考えてみようと思いつつ、まだ考えきれていない。そんなに早急に考える必要もないから、自分でものばし、のばしにしているのかも・・・だめですね。
 ただ、今の私の心境をなるべく正直に書くと、(書こうと思ったってどれほど正直に自分を語り得るかなんてわからないけれども)私は自分がここにくることで自分がだいぶ救われているような気がする。
 私は自分の中のみにくい面を何とかしたい、何とかしなければと思いつつ、いままで(何年間か)どうしようもできてこなかった。そんな自分ですらもここにくるだけの精神的ゆとりがあるのだということが、私を救っているのかもしれない。
 その他にもいろいろ動機はあると思う。遠藤さんやその他の人たちに、自分を救ってもらいたいという気持ちもあるだろうし(精神的に)単なるボランティア精神というものも全くないわけではないだろう。以上のことが、ここにくる動機としてふさわしいかどうか(へんな言い方。個人の動機はどんなものであってもいいように思えますが)自分に対して甘くないかどうか、もう少しつきつめて考えなければいけないと思うけれど、とりあえず以上のことが私の正直な気持ちです。(思いあがり、自己中心的な部分もあるかもしれない)
 話はとびますが、人を許すということは何と難しいことなんだろう。しかし、許せないうちは自分自身がちっとも前に進めないことだから、早くどこかでわりきらなければいけない。しかし、これ自体、自己中心的な考えのような気もする。もっと他人の痛みをきりきりと感じて、ああ、これじゃいけないのだと思うようになれないものか。人を傷つけて自分が嫌われるのではないか。あるいは自分が悪人になりたくないと思って、その行為を悔やむのと相手の心の傷を思ってその行為を悔やむのとは違うような気がする。実際は双方が微妙に重なりあっているのだろうけれど、どちらの比重が大きいか。これが前の方でSさんが書いていらした自分の立場にたって相手を考えることという意味なのかなあと思いました。このごろ、この類のことばかり考えている。そして、私自身、今までちっともわかっていなかったのだと感じる。今だっておそらくわかっていないのだろうけれど。
 人に嫌われるのではないかということばかり気にして、それによって自分が傷つくのがこわくて、自分を守ることばかり考えていたから、相手の痛みとか思いとかが自分の中から欠落しつつあったのではないかと思う。(無論、まるっきり考えなかったわけではないけれど)しかし、自分がまず先であったように感じる。あるいは、他人がどう思ったって自分さえしっかりしていれば、と自分を強くすることばかり考えて、へんにつっばねて強がってきた。もっと自然な形の強さというものを身につけられないものか。要するに自分を守ることで精一杯であったような気がする。しかし、人間の自己保全能力〈欲求〉はおそろしく強い。これ自体は非難されるべきことではない。結局自分のために他人に何かを求めてばかりいたようだ。自分で自分のことすら愛せていないので、それのうめあわせを他人に求めていたのか。自己愛と利己心は違う。私には利己心はあっても、自己愛はあまりないような気がする。自分を大切にできてはじめて、他人も大切にできるんじやないのだろうか。甘いのだろうか。まだまだ甘いところはあると思う。少しずつわかるように(思いこみかもしれないけど)なってきたように思う。しかし、わからなかった時期があって、はじめてわかる時期もあるわけだから、わからなかった時期を容易に否定はしないけれど。