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介助者ノートより

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(1986.1.2 I)
 介助者の皆様、あけましておめでとうございます、と書きながらめでたいって何なのだろうと考えてみます。よく誕生日おめでとうとも言いますね。
 お正月とか誕生日はなぜおめでたいのか。年をとるのはそれだけ長生きできたということ、「よく一年生きのびた、この事故のたえない世の中で」という意味もふくまれているのかしら。うーむ、最近、誕生日がうれしくない年齢になってしまいました。
 でも、私はお正月って好きなんです。(矛盾かしらん)歴史の先生は「正月なんて何の根拠もないんだ。私は正月だといって特に何をするわけでもない」と言ってますけど、もしお正月がなかったら、大そうじもしないし、年賀状も書かないし(私、年賀状って大好き。だって普段、連絡のとだえていた人とやりとりできる絶好の機会ですもん)おせち料理も食べられないし、お年玉だってもらえないんだぞー。
 新たな気持ちになるというのは、とてもいい事だと思うんです。皆さんはどう思いますか。

(1986.3.18)
 今日は遠藤先生の「卒業式」であった。
 黒のスーツにエンジのネクタイというめずらしい格好で出席。卒業生がワンワン泣く中、先生も泣いてたみたい。
 私は卒業式など、めんどくさい物だと思っていたが、教育委員会からのお言葉、校長先生のお詰など、昔なつかしく面白かった。きわめつけは蟹の光、大声で歌った。写真撮影の時、ボーと横に座ってると、何人かの在校生が声かけてきた。いろんな障害の人を見て、少しは勉強になった。先生の泣き顔も見れたし。

(1986.5.2 M)
 私は今日はじめて、このノートの存在を知りました。どーして誰も教えてくれなかったんですかあー。気がつかない私がよっぽど鈍感なのでしょうか・・・今日、読ませていただく時間がたっぷりなくて、飛ばし読みしかできないのが残念です。今度、来た時読んでもよいでしょうか。私も仲間に入れてくださいますか?むっつ無視してここのつ、このばかダメだなといじめないで・・・
 2月1日から二ヶ月間養育院の(板橋)特養ホームの寮母さんのアルバイトをやって来ました。一番はじめに一人前になったのは、手の洗い方。はずかしいくらい(はずかしく思うべきことだけれど)身を守ることを教えられた。何て自分は自分がかわいいのだろう。
 いや妹たちのこと思えば・・・自分は自分のえらんだことをやっているのだから・・・自分の勝手だけれど・・・梅毒のお年より何人もいたのでした。あとから思うと笑い話だけれど、その当座は祈ることしか残されていなかった、というか・・・でも一番行き場のないお年寄りかもしれない、とか自分がそういう病気をもった時のことなど考え、オムツの交換とか、入浴の介助とかすすんでやろうという時期と逃げ腰の時期と交互にやって来た。施設で生活するってどういうことか、『ピエロにさよなら』のこと思い出したり、家族とは何だろうと考えさせられたり、ああ何が何だかわかりません。でも、亡くなったお年寄り・・・そう亡くなった時、ああ、よかったな、よかったですねという気持ちがあったのです。きっと私には、まだ生命というものがわかっていない。

(1986.6 M.O)
 今日を精一杯生きよう
 きのうはもう来ない
 明日はまだ来ない

(1986.6.8 T)
 今日は上野の動物園へ行ってきました。昨日までの雨がうそのように晴れました。11時に遠藤家に集合だったのですが、僕は20分ほど遅刻したのです。でも、Mさんが来なかったので12時すぎまで待って、そして結局行ってしまいました。M.Oさんは一人さみしく〈?)車で、僕とYさんと、先生と信君、慧君は電車で行きました。
 上野動物園はパンダの赤ん坊が生まれたということもあって、とても混雑していました。そして途中で雨に降られてしまい、かっぱとかさを買いました。だから動物園の半分もまわれず、少し残念でした。信君、慧君はそれなりに満足してくれたようです。それから地下鉄で帰ったのでした。ちなみに車で行ったM.Oさんは道に迷ってしまって結局、上野に来ることはできませんでした。
 憲子さんは、今日は日比谷野音の「元気バカ組」(BさんとTさんがプレイしている)のライブに行きました。
 P。Sパンダの親子はお休みで見られませんでした。今度はもっとたくさんで行きましょう。

(1986.6 M.O)
 夜の介助について一言申し上げたい。
 滋氏も夜の介助を本気で求めるなら、少しは介助者のことも考えてほしい。
 我々は朝、学校へ行かなければならない。
 滋氏も、午前中寝てるくらいだったら、夜もっと早く寝てほしい。10時には床に入ってほしい。
 今度の介助者会議で取り上げたいので、各自検討しておいてほしい。
 私なぞは夜中に憲子さんが起こすもんだから夢見が悪く、昨夜は自分がフロイトになり、夢の中の自分がまた夢を見て、夢と現実がだんだん交ざってきてついに発狂してしまうという恐ろしい夢を見た。ここで寝ると大体夢見が悪い。
 笑いごとではないですぞ。

(1986.6.19 遠藤)
 M.O君へ
 夜の(泊りの)「介助」のことについて、とてもご親切な忠告、ありがとう。
 でも、わたしには今のところ、現在のこの生活パターンを、変更する気はありません。これがこの件に関する、わたしの自己決定です。
 そのために、たとえ「介助者」集めがどんなに困難になったとしても、ソレハそれで、その現実を引きうけてゆこう、ということです。でも、本気で泊りの「介助者」を確保しようとしていることには、なんの変わりもありません。
 だいたい、夜十時にスッと寝られるぐらいなら、泊りの「介助」なんか、もとめる必要はありません。「介助」は、それぐらいの覚悟もないと、実際にはできないことなのかな・・・。
 でも、本当はそうでもないはずですヨ。自己決定でやってくれてさえすれば。
 わたしは今、肉体的には右のわき腹から時に胸にかけての激しいひきつりと痛みにとりつかれながら、でもそれをあれこれと微妙にコントロールしようとしたり、あるいはひらきなおって、これは酒ででもごまかしてなんとなくつきあってしまおうと決めたりしつつ、精一杯に自分の生活を創りだそうとしています。わたしの今の介助体制とか、あるいはわたしが今、自分で選んで通っている「治療所」の診療時間帯などが、かなり大幅に変わりでもしないかぎり、おそらくこれ以上、どうしようもないでしょう。
 その上でさらにワープ口を打って、なにか自分の言いたいことを、文章にしてあらわしておきたいと思えば、どうしても6000回の、例の膝の屈伸運動のあと、つまりは深夜に始めざるをえないのです。しかもからだと相談しながら・・・。
 わたしはそういう自分のいのちのあり方を、歓んでひきうけて生きているだけの話です。
 あとはあなたがそれを、どう感じるかということだけ。
 ついでに言っておけば、わたしはもはや、「あす、・・・しなければならない」といった他律的、かつ自己規制的なもの言いには、なんの同情も感じなくなっています。「・・・したい」と、わたしにみずからの決断としてすすんで言ってくれないかぎり、わたしとしてはほとんどどうしようもない。「行かなければならない」から行くのであれば、なにも無理して学校になど行かなくてもいいじゃないか、と思ってしまう。
 でも、これは今のところ、確かにおおかたの泊りの「介助者」の本音をも、ある意味で見事に代弁しているのではないか、とも思えます。
 あえてこのようなことを、ここに書かせてもらった所以でした。

(1986.6.21 S.Y)
 今日はびらまきをしました。雨ということもあって、かさを持っているので、なかなか受け取ってもらえませんでした。あと、びらは折ってから(一枚をはさんで)わたさないと効率が悪いです。
 今度からは、どんな人のでも、びらを受け取るようにしようと、思ってしまいました。今度の人、がんばってください。

(1986.7.31 T)
 7月24日から7月27日と僕は遠藤滋先生と博多に行ったのですが、福岡市藤崎の西市民センターとももちパレスで全障連(全国障害者解放運動連絡会議)があり、そこで『だから人間なんだ』『ピエロにさよなら』『苦海をいかでわたるべき』を売っておりました。会議の中をのぞいていないのでなにをはなしていたかは全然わかりません。先生は一人で話をきいていました。あれだけ多くの障害者をみたのははじめてでした。
 感想を文学的に表現すると「いろんな車イスがあったけれど、先生の車イスがもっともシンプルだった」。(意味わかる?)
 いろいろな障害に、いろいろな種類があることにも気がつき、それはもちろん、その障害者の障害に応じて設備がついているわけです。そしてもっと拡大して考えると車イスだけでなく、障害者がこの世の中で(健全者がつくりだしたこの世の中で)生活していくためにはいろいろなものが必要となるわけです。(介助者もある意味で、その「必要なもの」でしょう)
 ただ、「先生の車イスはシンプルである」というのは、どういう意味かというと、先生はとても介助がしやすい障害者であるという意味であります。別に先生の障害が軽いというわけではありません。しかし、障害者は先生だから、僕は介助ができる。つまり、先生以外の障害者の介助は、僕にはとうていできないだろうとおもったのです。(障害の重い軽い、障害者の人柄などいろいろ考慮して)まあ、あらためて健全者と障害者のかかわりあいについて考えたのです。ハイ。
 しかし、今回の旅行は総じて楽しかったです。いろんな話があるんだけれど、今、暑くてとってもめんどう。今度きたときに書きます。

(1986.8.2)
 今日は10時から4時まで、本当に久しぶりにゆっくりと遠藤家ですごしました。教育実習、採用試験といそがしさにふりまわされて、こんなにのんびりできたのは本当に久しぶりです。この家はおちつきます。最近は彼にもかまってもらえないので、土曜の午後、男性と二人きりですごすなんてあまりなかったし・・・。(別に欲求不満ではありませんが)
 ノート二冊分を一気読み(飲み?)してしまいました。寮生はじめ、新人さんはほとんど知らない人々です。私は人の顔と名前をおぽえるのがにがてで(どっちがYくんで、どっちがTくん?)なんども名前をたずねますが、気長につきあってゃって下さい。一年ぐらいつきあえばおぽえます。
 M.Oくんがずいぶんたくさん書いてますね。いろいろ話したいこともあるのに、又、入院ですか・・・。みんなでM.Oくんの病院に遊びに・・・じゃなくて・・・お見舞に行きませう。早いうちに、ビールでも手みやげに。
 いろんな人がいろんなことを書いていて、それぞれに私のメッセージをさしあげたい気分ですが、特にTくんが気にいったので、Tくんに一言。Tくんて、今まで遠藤さんのところに来た介助にはなかったユニークなキャラクターをおもちの方だと思いました。ぜひ親しくなりたいわ。Tくんのノートを読んでいると、遠藤さんに対してとても気をつかっているみたいで、細やかな性格なのかなと思いました。私の場合、全く反対で、遠藤家にくるのはもちろん遠藤さんの介助が目的なのですが、それと同じくらいに自分の欲求を満たすため(おもしろいことや、感動的なことや、考えていまうようなことが、いっばいある所なのだ)に来てるといっても過言ではないのです。だから、遠藤さんに「〜してくれ」とか言われれば、もちろん最優先だけど、あとは自分のやりたいことをやりたい様にやるし(ねむたければねます)遠藤さんも、私のしていることが困ることだったら、はっきり言ってくれると思うし・・・。お互いにやさしさや思いやりは大切だけど、それと同時に、はっきり意識を示し合えるような、率直な関係をつくることが大切だと思うのです。介助者と障害者が、きゅうくつにならずに長くすてきな人間関係をつづけていこうと思うならね。私は実に気がまわらない、がさつな人間で、遠藤さんも不満を感じる時が(というか、注文をつけたい点が)あるときもあると思うけど、そういう時は先生が率直に私に言ってくれれば、すぐ私はその点を直します。やっぱりお互いのびのびした人間関係がいいですもんね。
 という私も、一年ぐらいまえまではのびのびできない所がありました。先生の方では何もこだわりをもっていないので、私の気持ちの転換ですぐにのりこえられるはずではあったのですが、時間がかかりましたね。トイレの介助をする様になってから、不当に先生と人間どうしのつきあいができるようになったなと思います。
 いろいろ書きましたが、Tくん、私は”深く、つきつめて考えてしまう”性格も含めて、まるごと君と仲良くなりたいわ。こんど、飲みに行こうね!(ところで飲める人ですか? ・・・私は少々。ナンテ)ディズニーランドのバイトがんばってね。今度、遠藤さんとディズニーランドでデートするなんていうの・・・いいな! そうしたらアイスクリーム屋に寄るから、アイスまけてね。

(1986.8.15 O)
 昨日、中野へ行った時、帰り道、新宿の駅でとってもかわいい女の子が二人、車椅子の介助を手助けしてくれました。正直、言わせていただければ、どっかのおじさんに手伝ってもらうより、あーいったかわいい子が手伝ってくれた方が本当に「ありがとう!」という気持が強いという事を実感します。「ありがとうございます!」だけ言って別れるのがもったいないくらいかわいい子でした。その時、思ったのですが、中野に行く人達はビラを常備しておいて、介助を手伝ってくれた人(主に若い人達)にビラを配ってみてはいかがでしょうか。動機がとっても不純ですけど、配るのと配らないのとでは配った方がいいような気がします。
 さて、中野から帰って来て、先生の運動が終わったのが23時30分、その後、書類の整理をして、お酒を飲みながら話をしているうちに、いつのまにか4時30分。ふとんをしいて電気を消したあとも先生はしゃべってくれてましたが、僕は寝てしまいました。(先生ごめんなさい)それがいけなかったのか、一時間後、蚊の猛襲を受け、首すじ二ヶ所、足一ヶ所ずつ刺されました。あったまにきて、首にムヒをぬりたくったら、アンモニア効果で肌はカツカするわ、目はしみるで、すっかり目がさえてしまいました。(ちなみに私を刺した蚊はコックローチで殺しました)あーねむい。話はもどりますが、ゆうべ、先生と話した内容のひとつに、生きがいを持ってる人はいっぱいいるけど、死にがいを持ってる人は少ないって事を話したりしました。ビートルズの話をしているうちに、こんな話になってしまったのですが、ノートの前のあなた! あなたの死にがい、何ですか?・・・

(1986.8.15 S)
 初顔のSです。初めて車椅子を押しました。初めのうちは先生を転ばすんじゃないかと、とても不安でした。電車の乗り降り、階段の登り降りをするうちに、だんだん慣れてきて「ん〜、私は車椅子を押す天才なんじゃないだろうか」などと勝手に考えて、勝手に喜んでました。

(1986.9.5 遠藤)
 なぜ「介助者」がぼくのことを、ちょうど一年ほど前からみんなセンセイと呼ぶようになったのか。親しみをこめての、いわば愛称なのか、それとも、もはや危険人物となったわたしを、敬して遠ざけておくための呼称なのか。いずれにしても自分としてはあまり望まないことなので、どうしても気になるのです。
 お互いにひとつのいのちである、それ以外のなにものでもない、とわたしは思っているので(年齢なども、もちろんどうってことはない)。

(1986.9.8)
 遠藤さんが「介助者」って書くときに、かぎかっこをつけるのは、なぜですか。

(1986.9.10 遠藤)
 僕は、本当は文字通りの意味で、自分と「ともに生きあえるひと」を求めているのです。「ひと」というより、「ひとびと」といった方がいいかな……。
 さしあたっては、白砂さん以外にはそういうひと(あるいは、ひとびと?)が本当のところではまだあらわれないので、自分のいのちを保つために、「介助」を、行きずりの誰彼に求め、それに応じてくれた誰彼を、「介助者」という名で一応は括って呼んでいるだけの話です。
 したがって、「介助者」が「介助者」のままでとどまってしまうのは、ぼくにとってはきわめて不本意。ぼくのいのちの求めに応じて来てくれたひとたちなのだから、たんなる「介助者」にとどまることなく、ひとりひとりがこうした機会を思うままに活かして、自分自身の本当の(ということは、裸の)いのちの求めに気づき、それぞれがそれぞれのいのちを思う存分に生かしたところで、ぼくのいのちとむかいあえるまでに、人間関係を深めたい。
 それができないうちに、このまま別れてゆくとしたら、ぼくとしてはあまりに残念です。
 おそらく、というよりは、明らかに、お互いがお互いのありのままのいのちを本当に祝福し、生かしあえるかどうか、ということがただ一つのポイント。しかもそういう関係を割りだすには、まず自分自身が、みずからのありのままのいのちに立つと自己決定すること以外に、難しいことは、じつはなにもないのです。
 そういう関係を、多くのひとびととの間にほんとうに創りだしてゆくことができさえすれば、「介助」などという言葉も、とりたてて使う必要はどんどんなくなってしまうでしょう。
 それでこそ、ほんとうに「共に生きあう関係」が実現できる。
 そのコトだけを精一杯に伝えて、あとはその「介助者」の自己決定におまかせ、ということにします。
 ぼくは、そのつもりで、ぼくの「介助」にきてくれたひとの、ひとりひとりに向かいあおうとしているのだから・・・。

(1986.9.19 A)
 わたしが遠藤さんを遠藤先生と呼ぶのは、ただ単に遠藤さんが学校の先生をしていらしたからで、特にその「先生」にこめる深い意味はもちあわせません。学校の先生を呼ぶという、とても単純な習慣によるものです。

(1986.9.25)
 久しぶり、ホントに久しぶりにここへ来たら、みんないっぱいノートに書いているんで、楽しみつつ読ませていただきました。ただ、単に楽しかったのは最初のうちだけで、あとはいろいろ考えつつだったんですけど、でも、こんなにノートが進むのは第三者として読む分には、すっごくうれしいことです。(無責任な言い方だろうか?)Aさんと同じで何を書いたらいいのか、すごく迷ってしまうと書く時にプレッシャーになってしまうのですが。いや、Aさんは別にプレッシャーを感じたから書けないのではないのかもしれないですね。
 ノートを書く際に自分の言いた言葉が本当に思いを表しているかどうか疑いだすと、なかなか書きづらくなってしまう。
 はっきし言って今日言いた文章もいまいち自分の気持ちではないような気もする。
 ぐしゃぐしゃごりごり がさがさ
 ともかく、ノートを読んでいろーんなことを感じたり、考えたり、思ったりしたということは確かなようです。で、普段顔を合わせる機会がほとんどないけども、これを通じて少しはお互いのことがわかるような気がします。ただ、みんなの顔もより一層みたくなりますね。このノートを読むと。
 ううん、これから先は書くのにホントにプレッシャーがあるのだが、介助者会議で話すのはもっとつらいので、そして隠べいすれば住むことでは決してないので、書くことにします。
 滋氏にとって、マスターベーションすることが切実な問題としてあるのならば、介助者としては受けとめなければいけないと思うのだけれども、なかなか難しいなと思ってしまうのが本音です。性器をさわることには(たぶん)そんなに抵抗はないのでしょうが、それ以外のところで一歩踏みこめない部分が出てきてしまいます。以上はすべて仮定、想像の世界だけで話をしているので、いざ実際の場となるともっと抵抗感があるのかもしれませんが・・・。。そして、この問題は女性の介護者にとっては。もっと踏み込むことのむずかしいもののような気がします。これもあくまで想像でしかないのだけど。

(1986.10.26 T)
 なんか、このごろユーミンがはやっておりますなあ。僕は、ユーミンは好きなものは好き、きらいなものはきらい、であります。でも、あまりよく知らないというのが本当です。概して「荒井」ものが好きです。「ひこうき雲」とか「卒業写真」とか「中央フリーウェイ」とか、あとは「ダンディライオン」(「NO SIDE」は一回くらいしか聞いたことがなくてよく覚えておりませーん)「ダウンタウンボーイ」なんてのもすきだなあ。でも、ユーミンの歌ってやっぱり軽いと思う。(軽いところが魅力なのですが)声がだいぶかわっているから、重いのはダメでしょうね。
 といいながら、私は中島みゆきのファンでありまして、中島のファンだというとうしろ指さされ組になってしまうんですよねー。たしかに中島のうたはそういううたばかりだしね(そこがいいんだい!)。
 遠藤さんにいわせると、中島のうたは演歌といっしょで、ありのままの命を否定したうただ、ということですが、あえて弁解しません。でも、中島のうたって演歌のような「お涙ちょうだい」ではないのですぞ!(あっ、こーいうのを。弁解というのかあ)

(1986.10.31 T.O)
 子どもに「おじさん」といわれて、おかしいなと思いつつも「はい」と返事をしてしまうようになってしまったTです。
 きょうは天気もいいし、のんびり遠藤家ですごしています。もうすぐ5時で帰ります。と思ったら、4時ごろ、Fさんが来てくれました。これで安心しました。またのんびりできます。きょうは2時までM.Aさんもいてくれたので、まったく楽をしています。シャワーまであびました。きょうは暖かかったので、かぜをひきません。
 ノートをずうっと読んでいました。おもしろかったです。こんなおもしろいノートはどこにもないんじゃないかなあ。ぼくもみなさんにあやかりたくって、少し書いてますけど、ひとりよがりのことばにしかならないのです。でも書きます。
 遠藤さんの介助に入って感じることは、とても気楽だということです。おそらくそれは四人のキャラクターと、家族という暖かみから来ているものだと思うのです。(介助者に対して二人が気を配っているエネルギーは相当なものだと思いますが)しかし、私たち介助者はとにかく来ることが必要なのです。数少なくても来れば歓迎してくれます。(ずうずうしくも最近はめったに来れない私です)そして、何よりも介助者の人たちが、がんばっているということ。介助者に会える、会えなくても、このノートで会えることがうれしいのです。たいへんなことですが、精神的には気楽にできる。じつは、私たちは、とても大切なことをしているのですが。
 この中から、飛躍していくパワーが何かわいてきそうな気がするのです。今度の自立の問題だって、なにかふわっとしたかんじでうけとめていけそうな気がします。
 カレーのにおいと、しいたけのにおいにのせて、ぽくは去っていきます。いい一日でした。

(1986.11.5 M.O)
 まあ、忘れてんならしょーがねーけど、(しょーがなくもねーか?)来れなくなったときはTELだけはしようぜ! 遠藤さんの命がかかってんだから。(といいながら、ワタシもずいぶんスッポカシタことを告白します)
 ケイに虫歯のオソロシサを説いたら「食べたらミガク!」ことを心に誓ったようです。みなさんも気がついたら「ミガカセテ」やってはいかが?(ポイントは虫歯に伴う治療、特に抜歯時の注射の恐怖感を極力リアルに説くことのようです)
 ユーミンがきらいな奴もいるようだけど、そんな奴とはもう遊んでやんねーよおーだっ!
 俺は音楽はみんな好きだっ!ラテン・クラシック・レゲエ・演歌・ROCK・・・そんなのは当然、果ては、民謡、狂言、どどいつまで・・・(もう音楽とは言えないな)別に専門家でもマニアでもないけど、人間、というか、霊鳥類ヒト目ヒト科ホモサピエンス、東アジア系民族、日本人のワタクシとしては、「コミュニケーション」の手段として人類が培ってきた、なんと申しましょうか、大きな遺産とでも申しましょうか・・・つまり、19日はトークの日で、「ヒト、街、コミュニケーション」の重要性を切に訴えているのでありまして、最近とみに興味を持ち始めた洋楽の分野では、一例をあげるならば「マイアミ・サウンド・マシーン」という人々の「コンガ」という歌などは、つまり「みんなで楽しくコンガのリズムに合わせて体を動かせば、みんなHAPPYさっ!」といったような、いわゆる、ラテンというか、エスニックというか、つまり、人間は野性に帰って、やりてーようにやりゃー楽しいよっ! と歌ってるわけで、ある意味では、遠藤氏の「ありのままのいのち」説に近いとも思わるのです。
 もっとすごいのは「コンガは島のリズム! さあ、みんなで楽しく踊ろう! パイナップルだって甘いのよ!」という、なんかよくわかんない歌詞もあり、ほとんど哲学の世界に近いものを凡人のワタクシなどは感じてしまうのです。
 「Like a Rolling Stone!」このR&Rの人々が合言葉にしている「石のように転がろう」(「転がる石のように」かな?)ということこそ、遠藤氏の「ありのまま」説であり、やがては鴨 長明の「行く川の流れはたえずして、しかも、もとの水にあらず、よどみに浮かぶ、うたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる ためしなし」という一句に代表される仏教の「無常観」にもつらなっているのであります。
 つまり、「音楽は世界を結ぶひとつの言葉!」なのであります。いや、耳の聴こえない人はどうする。→そうだ! 絵だ! 写真だ! →「芸術はバクハツだっ!!」
 そうか、世界共通の言葉は英語でもフランス語でも、べーシックでも二進法でもPCM録音でもなく・・・。「芸術」だったのか! 「オー、神よ、こんな素晴らしいことに気付かせていただいて、どうもありがとう。」これで、今日生きていた価値はあったなあー。じゃあ、「おばあちゃん」もみえたことだし、そろそろ帰ります。

(1986.12.30 A)
 卒論が終わってない。どーしてくれるんだよー!!(・・・と言ってみたところでワルいのは自分であるが・・・)
 久しぶりにノートを読みまして、皆に会いたくなりました。そして、「できるかぎりあたりさわりなく、あくまでもオンピンに、他人のフリして」を毎日すべての場面における対人関係のモットーにしているワタシには、なにかチクチクと胸につきささるものを感じたワケです。
 わたしは「愛している」というコトバを明るく元気にクッタクのない笑顔とともに使える人は、すごーくエライ!! と思うのです。とてもさみしいことに自分はコトバの意味が実感としてよくわかりません。←使えないのです。みんながこのコトバをさかんに使うのをきいていると、なんてエライ人々なのだろうと思ってしまいます。・・・といったところで時間ギレです。みなさま、よいお年を。