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(1996.1.5 S)
 明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしく。
 本日、来てみると、遠藤さんは10時になっても、一向に目を覚ます気配もなく・・・、朝食時、うかがってみると、遠藤氏は正月の大騒動で、寝不足気味のようです・・・。何があったかは、遠藤さんにきいたらば??
 遠藤さんは、またまた笑ってる・・・。「楽しそうっ!!」っていったら、「別に楽しいわけじゃ・・・」っていったけど、どこからみても楽しそう。お正月の騒動をほのぽのたいへんだったと思い起こしていたんだって。遠藤さんて、いつもニタニタ笑ってますよね。だいたい原因は3つ、
1、詩作
2、思索
3、思い出し笑い
って所だと思いません??
 でも、私は昼下がり、遠藤さんのニタニタ顔を見つつ、CDなんて聴いてる時は、けっこう幸せを感じてしまう・・・。

(1996.1.15 N)
 晴れ着姿の女性がいました。見たいけれど、おやじの目になって「スケペー」と思われても困るので、見るに見れませんでした。だいたい僕にはまぶしすぎますからね。見ても見なくてもスケべはスケべです。
 女性と介助交替して帰ると、僕のくそ汚い靴が、帰るときのために揃え直してあるということが、何度かあります。遠藤さんのところから、僕の家までは片道一時間四〇分ぐらいかかるので、家路につくのはしんどいのですが、靴を揃えてくれるという、ちょっとした心配りでもって、随分と心がなごむんです。うれしく帰ってゆくことができます。心配りってのは、さりげないけれど、とっても人の心を変化させるものみたいです。
 心配りはいいかもしれませんが、それが「やるべきこと」「やらねばならないこと」として義務化されると、人をしばりつける、ろくでもないものになります。自分は気がきかないからダメだと思い込んだり、また、さりげなさを失って、心配りをしたら、相手にそれを感謝するように、受け取るように強制したり。また、受け取る側は「もっと気きかせろよ!」なんて言って、強制したり。そんな風に、心配りを義務化すると、逆に人間関係が殺伐としてきます。心配りの仕方にもその人その人の特徴があって、話しかけている人もいるんだと思うんです。一人で生きている人はいないし、だから、きっとそれぞれの人がその人なりに心を配っている。心を配ろうなんて気負わずに、ただ自分らしくあれば、その方が、その人らしい心配りが、さりげなく自然と出てくるのではないかなと思います。靴を揃えてくれる人、お茶を出してくれる人、話しかけてくれる人、食器の片付けをしてくれる人、いろんな人がいます。それぞれすばらしいことでしょう。ただ、自分を曲げてまで心配りはするものではないと思います。自分を引っ込めることはないと思うんです。

(1996.1.28 N)
 へルパー日誌
 9時 洗濯を始める。パンを冷蔵庫から出す。酸性水を沸かす。『奈緒ちゃん』のチラシの土曜シール貼りをやらずに(ここがニセヘルパー)ノートを書く。
11時 遠藤さん起きる。薬飲む。顔拭く。しびんを当てようとしたらば、すでに尿がもれていたので、シーツと下着、ズボンの交換。
11時30分 朝食の準備
12時   朝食介助
12時30分 洗濯終了
13時50分 朝食終了
14時  パソコン打ち〈介助料について〉
16時40分 パソコン打ち終了。Fさん来訪
16時50分 薬飲む
17時  終了

(1996.2.13 N)
 近頃、何やらあやしーい噂が出始めているようです。
「Nホモ説」「N・遠藤恋愛説」etc……。おいおい、ちょっとまってよ!僕はたくさん遠藤さんのところへ介助に入ってますが、ホモではないし、遠藤さんに恋をしているということもありません。恋愛は女性としたい。遠藤さんが食事中に帰宅することが多く、目と目で合図したりすると、それがまたよからぬ噂となるようですねえ。

(1996.2.14 遠藤)
 僕も恋愛は絶対、女性とします。

(1996.2.29 S)
 四年に一度しかこない今なのに、なのに……
 今日、私は介助時間を全くまちがって、しまいました。
 5時までなのに、5時にやってきたという、大オロカ者。さわやかに、「こんちはー?」などといってみたら、遠藤氏の母上は、いらっしゃるし、Nさんは、不思議そうな顔をするし・・・、で・・・。
 冗談にはなりません。年度末の今日、たいへんな失敗をおかしてしまいました。心をひきしめます。気をつけます。本日御迷惑をおかけした皆さん、ボランティアの皆さん、告白して謝罪します。本当に申し訳ありませんでした。
 P。S。気にするなといってくれた遠藤さんはじめ、みなさんのやさしさ。心に痛かったです。もう、きっとこんなことないようにします。

(1996.3.7 I.K)
 「カッコイイってどんな事?」
 頭の悪い奴より、頭のいい奴の方が、そりゃあカッコイイ。
 しかし、とある難しい本を読んで、みんなで討議をするとなって、頭のいい奴は、一回でわかったといって、一回しか読まなかった。
 頭の悪い奴は、一回でわからなかったといって、10回読んだ。
 10回読んだ頭の悪い奴の方がカッコイイって思いません?
 足の遅い奴より、足の早い奴の方が、そりゃあカッコイイ。
 ある時、この二人が競争したとする。
 足の早い奴は楽々走りぬけた。
 足の遅い奴は、どれだけ時間をかけても、走りぬいた。
 走りぬいた足の遅い奴の方が、カッコイイって思いません?
 不器用な奴より、器用な奴の方が、そりゃあカッコイイ。
 ある時、この二人が、全く同じ仕事をやらされたとする。
 器用な奴は、何なくその仕事をやってのけた。
 不器用な奴は時間をかけてもなげださずに、その仕事をやりとげた。
 仕事をやりとげた、不器用な奴の方が、カッコイイって思いません?
 他人からなんと言われようと、自分というものをしっかりもっていて、課せられたものをやりとげる奴がカッコイイと私は思うのです。
 「バカ」と呼ばれて「ハイ」と答える奴がいたら、私はそいつこそ最高にカツコイイ奴だと思うのです。

(1996.3.19 L)
 「カッコイイってどんな事?」勝手にパート2
 私にとって、「カッコイイ」というのは、人間をみるにあたって、とても重要な概念です。もちろん、見せかけだけではなく、むしろ、その人の中身(その人自身)のかっこよさ、というのにとても魅せられてしまいます。
 どんなに見た目がキマってて、カッコイイ奴でも、例えば、おはしが上手に使えないとか、食事中にくちゃくちや音たてて食うとか、そーゆー奴は私は「本当、ダッセー奴」と思います。
 自分の身近な人で、私がカッコイイと思う人の中に遠藤さんは、もち、入ってます。「どこが」と上手く指摘するコトはできないのですが、強いていえば、「自分のことを『カッコイイ』と意識してない人のみが持つているカッコよさ」が彼にはあると思います。本当、遠藤さんはカッコイイ。

(1996.3.25)
 私はこの間、無事大学を・卒業したのですが、遠藤宅には一年生の4月、桜の咲く頃、はじめて来ました。思えばもう四年です。ココへ来てよかったです。本当にそう思います。
 もう行くのはよそう!! と思ったりしました。でも、つづけてよかったです。遠藤さんとも、一年生の頃と比べると、なんて仲良くなったことでしょう。ステキな関係が作れてよかった。そして他の多くの皆さん、たくさんとは言いませんが、学校も住んでる所も全く違う人、偶然出会った人なのに・・・いつも楽しくて、本当によかったです。私を大きく(心がですヨ)してくれた遠藤さん、ボランティアの皆さん、本当にありがとうございました。
 故郷に帰るため、グッとここへ来る機会も減ると思いますが、また来ます。
 遠藤さん、イイ女になった私との再会を楽しみにしてネ。
 ボランティアの皆さん、遠藤さんと共にますます、楽しくおかしく、一生懸命がんばっていってください。
 お世話になりました。皆さん、どうもありがとう!!

(1996.4.18 N)
 まだ寒い日もあるし、雨が何日かおきに降るので、遠藤さんが散歩へ行くチャンスはなかなかないのですが、もうじき行ける季節です。
 しばらくこの周辺を歩いていないので、どんな風に変化してきているのかみたいそうです。いい頃を見計らって、その辺を遠藤さんとぶらりとしてみたい。みなさんもチャンスがあったら誘ってみてください。僕と散歩より、女性とデートという方がいいと思うので。車椅子でならば、介助者一人でも、随分と楽に行けますよ。コツさえつかめば車椅子を押すのは、それほど大変ではありません。
 入浴サービスの人に「遠藤さんの息子さんでしょ」と先日、言われました。その前は「遠藤さんの弟さん?」というのもありました。息子ならまだわかりますが、弟とはなんたることを! いったい僕はいくつに見えるのでしょうか。遠藤さんが若いのか、はたまたすでに白髪がたくさんある僕がじじくさいのか。
 弟とか息子と言われるのは、僕がここですごくくつろいでいるからなのだと思います。実際、そういわれたんですけどね。自分の家のように足は投げ出すわ、お湯沸かしてコーヒーを飲むわ。でも、これはこれでいいんだと思ってます。ただ、みんながそうなるともっといいんです。みんながくつろげないところは、本当の意味でくつろぎの場ではないと考えてます。あなたはあなたのくつろげるところにしてしまってください。あなたがくつろいでいない姿を見たら、僕もくつろげないし、遠藤さんもそうでしょう。お互い知り合ってゆくことが、くつろげるようになるための大きな道かなと思っていますので、いろいろ話したり、一緒にやってゆきましょう。

(1996.5.6 遠藤)
 僕の介助ってそんなにたいへんですか?

(1996.5.6 Y)
 あるアル中の元国家公務員からの問いかけです。俺の答えは「楽勝ッス!」以外にないッス。

(1996.5.12 遠藤)
 先日、このノートで僕が問いかけたことは、もちろん「遠藤さんの介助なんて、楽なもんだよ」等という答えを期待してのことではありません。
 介助は、ある意味でたしかに時間と労力の支出であり、その意味ではそれなりに「たいへんなこと」です。だから僕は特定の人に無理をかけることをできるだけ避けようとしています。それなりに金銭的な保障もしておきたいとも思っています。
 でも、かつて僕が学校で仕事をしていた頃、体験した不思議な感覚について書いてみたい。それは授業がうまくいって生徒のひとりひとりとの関係がとても良いものになったとき、僕はそれを仕事として労働力を支出しているはずなのに、妙に安らいでいる自分を発見したのです。それどころか、生徒達からかえって元気をもらい、リフレッシュしている。これで、なお給料なんかもらっていいのか、という気持ちにすらなりました。一般的な労働観を見直してみるひとつの大きなきっかけになっています。
 僕はお互いにケアしあうこと、進んで生かしあうことを楽しい関係として作り上げたいと思っています。すべての「仕事」をそこから捉えなおしてみたい。自分から進んで介助に入ってくれる人もたしかにいるのに、それをすべて「たいへんなこと」として、ひとくくりに語られてしまうことに、少々ひっかかりを感じたのは、そのためです。それでああいう問いかけをしてみたくなったのでした。

(1996.5.13 N)
 僕は仕事というのは、つらいものではなく、楽しいものだと思っていました。遠藤さんの考えに賛成しているつもりでした。けれど、遠藤さんの介助について「大変なこと」とひとくくりにしてるような発言が多かったことは否定できません。みんなが介助を分担してやってゆく、だから誰かが介助に入ってくれれば、ついつい自分のことのように「よく入ってくれた、ありがとう」という表現してしまいました。介助のすべてを自分一人で担うことなどできないけれど、介助をつなぐことを遠藤さん個人の問題として、自分には関係ないこととはしたくないんです。つまり、自分にも介助をつないでゆく責任(自発的なやつですよ)があると思っています。介助が大変なだけだったら、こんなにいろんな介助の人は来てくれないでしょう。いろんな人が来てくれているという事実からして、すでに介助を通して楽しい関係があるってことのように思えます。楽しいものとして、介助を分担してゆけたらいいなと思います。ここへ来る人同士のコミュニケーションがうまくとれて、生かしあえたという感じをもてるとすごく楽しいです。そういう楽しい関係というのは、すでにできているというのが僕の実感です。ここへ来て、すごく楽しい気分で帰れる日もあるんです。楽しい介助を前提としても、やはり介助へ入ってくれると「ありがとう」とか言ってしまいます。

(1996.9.22 K)
 むかしね、あるダンスのワークショップに行ったんだけどね、その時にしみじーみ思ったことは、みんな、人とつながろうとして、失敗して、閉じて、それでもまたちらっと戸(心の扉ってヤツ)を開けて、また閉めて、そいで開けて。
 ある人は、人に閉じられるのが怖くて逆にどんどんズカズカ入っていって、一見ものすごくオープンだけど、必死だったり、一見独りをつらぬいてそうで、なんだかかっこいいのに、けっこうさびしいと言っていたり、逆に一見、かたくなに見えて、意外にスコンと楽しくて、侵しかったり、なんていうのかな、あーみんな一生懸命だなあなんて、思ったよ。
 これは皮肉じゃなくてね。本当にそう思うの。赤んぼって見たことあるよね。なんともいえず頼りない柔らかさというのがあるじゃない?みんなああいうところから出てきたんだなと思うと、自分の母や父もそういう眼で見るようになって、変に完璧を求めなくなった。閉じきってしまわない限りは、どこかで一緒にやっていけんじやないかと思います。このあたり、遠藤さんの人に対して開く、っていうのとチガッテくるのかとも思い、今そういうこと考えてます。
 私は遠藤さんの開かれてあれってことばを、プレッシャーとして感じてしまうことがあるのだけど、私はこんな風に考えます。今のところは。
 常に開かれつつある存在(?)なんだって思う。ここらへん、まだよく考えよう(遠藤さんを見ながら)。介助にまだ来てるのも〈途中、何度も途切れかかって)、閉じきってしまわなければ、どっかでやってけると思うからです。
 しょっちゅう、もう戸を閉めきろーかと思うことあるし。(少なくともちょっと前まで)自分が迷惑かしらって感じるときもあるし。でも、私が閉じないでいることで他の人がらくちんに感じられる、楽しいとか、あー助かったって思うとか、あーうまいとか、そういうことができるなら、なかなかいい感じじゃない。自分がここにいるって感じ、すんじゃない。別に「いい人」じゃなくてもさ。
 と、いうわけで、何が言いたかったかというと、介助に入ってくれるとうれしい自分をハゲマスのも含めて、そういいたいです。うれしい、うれしいのよ。それだけのこと。