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ケア生活館 って、何?

 「モデル集合共同住宅」とも表現しています。お互いにそのありのままのいのちを活かしあいながら生きる、地域での生活拠点としての構想です。

 これまでの住宅や公共建造物の不便な点、あるいは便利な点について、それぞれの利用者(特に高齢者、障害者、病弱者やその介助をしている人たち)が中心となって調査を進めてゆく過程で検討を続け、あくまで自分たちの力で細部の設計までおこなおうと考えています。ですから、今の段階で、具体的にどういうものを思い描いているのか、伝えるのはなかなか難しいのですが・・・。いままでどこにもなかったものを造ろうというのだから、なおさらです。それでも、あえて発起人の一人である私なりに書いてみれば、次のようになるのでしょうか。


 たとえば、3、4棟程度の小規模の団地をイメージしてみてください。これでは、そこらにあるごくふつうの団地となにも変わりがありませんね。四角い、コンクリートの建物がただ並んでいるだけで、その中に世帯ごとに同じような空間が仕切られており、それぞれの住人の間にはほとんど何のつながりもありません。並んで住んでいながら、まさに「隣は何をする人ぞ」の状態です。
 わずらわしい気遣いもいらず、一見、なんの干渉もない自由な空間に見えます。しかし、その反面で、考えようによっては、これは実に味気なく、淋しい空間です。家族水入らずとはいっても、その家族そのものが今や事実上ばらばらになってきています。毎晩寝に帰ってくるだけで、悩みごとを相談できる人さえ、なかなかいない。
 毎日の食事も、コンビニ弁当とまではいかなくとも、スーパーで買ってきた総菜や、レトルト食品の組み合わせ、ということになりがちです。まして家族のいない家の中で、たとえばカップ麺などをひとりで食べている姿を、想像してみてください。たまたま一人暮らしであれば、淋しさ、味気なさもひとしおでしょう。

 ここで思いきって、その家の空間のうちの、共有できる部分、たとえばキッチンや食堂、それに浴場などについて、積極的に共通の空間をそろえるんです。みんなが気軽に自由に集まれるスペースや、ホール、作業室などもその中に組み込みます。各棟をたとえば渡り廊下などで機能的に結んで、車椅子だったら2,3台は入れるような大きなエレベーターを造ったり。これならストレッチャー(キャスター付き寝台)1台くらい楽に入れるし、大きな荷物を運ぶのにも便利です。

 食事についていえば、作るのが好きな人、得意な人が何人かで担当してもいいし、当番を組んでみんなでやってもいい。たまにはイベントとして、互いに得意な料理を伝えあう会を開くのも一興です。食文化の交流も、ここでできることになります。もちろん、伊豆の農場などでとれた産物は、食材として最大限に生かします。

 食事に限らず、生活に必要なことは、ほかにもたくさんあります。掃除、洗濯、物品の管理等々。基本的には、もちろんそれらのことはそれぞれの人ができるだけ自分でこなすのが望ましいのでしょうが、人によって、そして個人的な事情や時と場合によって、非常に煩わしいこともあります。病気や障害のためにできない人もいる。そんなとき、それを担ってくれる人がいたとしたら、とても助かります。

 その一方で、逆にそれらを得意とする人もいるでしょう。高齢の人や軽い障害を持った人の中にも、そういう人がいるかもしれない。今の社会の枠組みの中で、いわゆる「就労」がしたくてなかなかできないでいる人も、それらを積極的に仕事として位置づけることができれば、立派にその役割を果たすことができます。生活館には、そのための機械器具や仕事場を設けてもよい。うるさい条件を提示したり「資格」などを問い正したりしなくても、そういう人々に思う存分力を発揮してもらうことができます。いや、もっと積極的に、一般の「仕事」そのもののありかたやとらえかたについても、今とは随分違ったものに変えてゆけるでしょう。

 生活館の地下の共同浴場は近所の人々にも開放し、そこにたとえば重度の障害を持った人のための設備(リフトなど)をいくつか作っておけば、各個の家々にいちいちスペースをとってそれらを備える必要もなくなります。
 一階部分には、たとえば伊豆の農場で収穫したような自然食品を売る店をおいてもいいし、喫茶店やお菓子屋のようなものを開いてもいい。伊豆の農場だけでなく、ほかの様々なところとネットワークを形作る中で、それらの場所での産物を集めて、ちょうど生協のようなところにしてもいい。たとえ障害を持った人でも、その人のやりたいこと、できることを活かして、仕事ができる場にもなります。

 もちろん、プライベートな空間は大切ですから、各世帯別の浴室や台所なども、それぞれに確保します。またまた食事を例に出せば、休日などには好きなものや、そのとき自分たちが食べたいものを作って家族で食べてもいいわけだし、個人的な来客などあれば、その人をもてなすために腕をふるう、ということもありえます。さらに、世帯別の部屋のほかに、学生など単身者用の部屋も準備します。

 場合によっては、この生活館の周りの家々の人々とも互助的な関係を結んで、緊急時に即応して人が派遣できるような事務所を置くのもいいでしょう。これについては、今あちこちにできてきている、たとえば障害を持った人たちの「自立生活センター」の持っているノウハウも生かせます。

 
 念をおしておきますが、これは障害を持った人のための施設ではありません。ごく当たり前に、誰もがそのありのままのいのちを活かしあって生活できる単なる住宅です。そして、それは今、この場から、そうした関係を少しずつでも形成してゆく中で、はじめて実現できることなのです。たとえ現在わたしたちがどんな状況に置かれていようと。
 障害は誰もが持つ可能性があります。病気によって、そして事故によって。さらに誰にも避けられない老いによっても、人々は様々な障害を持つことになります。

 今、子供に現代社会の持ついろいろな問題が集約されて表れてきて、各方面で議論の的になっています。でも、これにしても、今のところは忙しすぎる親たちや教師たちに代わって、お年寄りや障害を持った人たちが、自ら仲立ちとなって彼らと日常的に関わることで、積極的に解決できることが意外に多いのではないのでしょうか?
 たとえば私にしても、一見すると一方的にケアを受けるだけの存在のように見えながら、その実、学生さんたちなど若い介助者にいろんな個人的な相談をもちかけられたり、それを聞いて、何か私にしかできないアドバイスをしていることもしばしばあるのです。ましてお年寄りであれば、だてに70年、80年を生きぬいてきたわけではないのだから、なおのこと生活の知恵袋として、それが様々に活きる可能性は大きいでしょう。老いや障害を否定的にとらえてしまう必要は、全くないのです。直接的な生産性がなくなったというだけで、単なる「福祉の対象」と見てしまうのはとてももったいないことだと思います。

 関わってくださるかたが増えれば増えるほど、イメージは豊かになり、また、ますます具体的になってゆくでしょう。とにかく一つでも建設を実現することです。それによって、各地にこういった住宅を造ろうという動きが起こり、それらをまたネットワークで結んでゆける可能性も開けます。