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“生かしあう”関係の上に
遠藤 滋
ボランティアで介助などしているというと、しばしば「えらいわねぇ」「よくやっているねぇ」という言葉が返ってきますね。
いまだに、そういうことをするのはよほど奇特な人だ、という観念が人々にあるからなのでしょう。中には、偽善だ、と決めつける人さえいます。その前提には、必ず介助など他人事(ひとごと)だという感覚が潜んでいます。
いざ自分にふりかかってこないと、その問題になかなか実感がもてない、ということがあるのは確かです。ぼくもまたそうでした。
いま、ぼくのところに介助に来てくれている人達は、そういう意味でもぼくにとって貴重な人達なのです。これらの人達を、ぼくはひとりひとり本当に大切にしたい。たとえ、ひとりひとりの思いがどんなところにあるにしても。
ところで、ぼくはよく「いのちを生かしあって生きる」ということを言います。ぼくが発起人のひとりとなっている「ケア生活くらぶ」の出発点がそれなのですが、しかしこれは決してスローガンのようなものとして考えたわけではありません。いま、ここに、ひとつひとつの関係として、みずから現実のものとしてゆく…。そういう、いわば生きる構えを表した言葉なのです。
それをスローガンやめざすべき理想として向こうがわに掲げてしまっては、この言葉はなんの意味もないものになってしまう。スローガンや理想は、所詮、どこまでいってもスローガンや理想でしかないからです。
だから、ぼくはボランティアとは何かとか、あるべき介助者像とはどういうものかとか、そういった議論もしません。そんな議論は、ぼくには無用です。それは、これまでの観念の延長上で、物事をせせこましく枠づけることにしかならないからです。
そんなことをやっているヒマがあったら、ぼくは自分が具体的にしたいこと、してほしいことを、相手にどう正確に伝えられるかを考えます。相手がどういう人であるかを探ってそれを理解してゆかないと、その人の心に届くような的確な言葉も見つからない。だって、この世の中にひとりとして同じ人はいないのですから。
一見すると、ぼくが一方的に介助される側で、相手は介助する側にあるように見えます。でも、それでは実は介助は成り立たない。ぼくの方でも、その人ならではの持ち味を見つけだし、それを積極的に生かすようにしてゆかないと、豊かな介助は期待できない。そこにはすでに、生かしあう関係がほんとうは成立しているのです。たとえその人が、それをどう意識していようと。
しかも、ぼくはいま、あらゆる世間的な固定観念から自由なところで、自分のありのままのいのちを思う存分に生かそうと決めて、ここに生き続けています。そういうぼくと、せっかく関わったのだから、この生かしあう関係についても、ぜひ気づいてほしい。だって、事実としてぼくを支えてくれる人がいなかったら、そもそもぼくはここに生きていられないのだから。ここに介助に来てくれている人達は、すでにぼくのいのちを立派に生かしてくれているのです。
もし、ぼく自身がいま、自分のいのちを輝かすことができているとすれば、それはぼくが理屈や固定観念の鎧(よろい)を身にまとったり、自分のいのちをほかのもので飾ろうとしたりしていないからです。
いのちそのものは、本来、それ自体が輝いているものです。たとえそれがどんないのちであろうと。ぼくのいのちの輝きは、どれだけ曇りなく他の人のいのちを輝かしているでしょうか? ぼくの介助に関わってくれているあなたも、自分の中に、みずからのいのちの輝きを感ずることができるはずです。それを本当に自分で輝かすかどうかは、あなたの決めかた次第…!
なお、ぼくの介助に関わってくれる人に改めてお願いしておきたいことがあります。特に新しい人に。
ぼくを特別に「護ろう」とする必要はありません。そうではなく、一緒に考えてほしいのです。さしあたっては介助される側と、介助する側の両方の立場で。そして一番よいやり方を模索してゆきたいのです。
例えば、プールでの介助。水中でのリハビリの内容ややり方、そして安全などについては、ぼくなりに考えて試行錯誤をしています。それについて頼れる専門家のような人は、残念ながらまだいません。だからそれについての全責任は、とりあえずぼく自身にあります。それでもあえてやろうというのは、ぼくにとっていまそれが必要だからです。
もちろん、安全についてなど、必要なことに注意を払ってもらったり、意見を言ってもらったりはしてほしい。それは、一般的にいう仰々しい「責任」ではなく、ぼくとの信頼関係の中での個人的な責任と考えてください。
役人が負うべき責任だとか、政治家が考えるべき問題だとか、そういってしまうのは簡単です。でも、そういってみても目の前の問題は何も解決しない。彼らを動かそうとするのは、いまのところ絶望的なほど困難だということは、実は誰もが感じていることでしょう。
いざ自分に何かがふりかかってきたときだけ、役人のせいにしてみたり、政治家のせいにしてみても、その時にはもうどうしようもないのです。
みずからの責任でおたがいにやってゆけることは沢山あります。その気になれば、たいていのことはできると言っていい。
ありのままのいのちを生かしあいながら生きる関係を、ひとつひとつ現実のものとしてゆく…。これがぼくの決めた生き方であり、介助に関わってくれる人達との間でやってゆきたいことでもあり、そしてケア生活くらぶも、そのために準備してきた組織なのです。
あなたも、すすんでこうした関係を共有しませんか。そしてその関係の上に、もっと豊かな世界をみずから開いてゆきませんか?
ちなみに、ケア生活くらぶでは、とりあえず西伊豆松崎での交流農場づくりと、都内でのモデル集合共同住宅(ケア生活センター)づくりを今、新しい生活ネットワークの拠点としようと、目下の課題としています。でも、生かしあう関係を現実的に支えるための方法となるなら、どんな人のどんな意見でも、生かすことにやぶさかではありません。
なぜって、ぼくはケア生活くらぶを、世の中によくあるような大小のピラミッド型の組織にはしたくないから。あくまで、ひとりひとりの横のネットワークとして形成してゆきたいから。やってみたい一つ一つの具体的なことについて、言い出しっぺが責任を持つ、いわば「この指とまれ」ネット。
もちろん、介助者グループも、この方式でやってゆきたいと思っています。
1996.11.4
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