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ケア生活くらぶ … 遠藤がなぜ発起人?

 いま、ぼくは東京の街のまん中で、ひとり暮らしをしています。あえて「自立生活」などとは言いますまい。
 脳性マヒに、変形性頸椎症による脊髄の神経管狭窄からくる複雑な障害が重なって、ひとり暮らしとはいっても、実際にはたえず誰かの介助が必要です。1日24時間、1年365日、必ずそばに、少なくとも誰か一人にはいてもらう必要があるのです。

 それらのひとびとを、ぼくはいままで、「介助者」と呼んできました。
 活動的な障害者たちの間で、もう二十年以上も前から、続けられてきた論争があります。それは、それら「介助」のひとたちが、単に自分たちの手足であるだけでよいのかどうか、という問題でした。安易に「ひととして同じだよ」といって、対等の人格と位置づけてみても、かえって圧倒的なそれらのひとびとの感覚に流され、結果として自分たちひとりひとりに固有の生活感覚をつぶされてしまうのではないか、という恐れがあったからです。

 どこまでいっても決着のつかない論争に、ぼくは決着をつけました。

 どんなひととでも、互いにそのいのちそのものをいかしあって生きる。たとえそのいのちが、どんな姿をしていたとしても…。
 それが、ぼくの決めた生き方なのです。だからこれは、ぼくの介助に来てくれている全てのひとたちとの間でも、当然貫くことになります。

 いま、いわゆる「介助」のひとたちに、ぼくは必ずしもおなじものを求めていません。
 もちろん、現実にはぼくはさしあたりここでひとり暮らしを続けざるをえないのだから、一対一で介助をうけるしかない場面が圧倒的に多い。だから少なくともそのひとの受け持ち時間のあいだは、安心してそのひとに自分のいのちを預けられるよう、最低限の条件は設けざるをえないのです。でも、それはできる限り、最小限におさえておきたい。そのひとひとりひとりの持ち味を、生かしたいと思っているからです。

 だから、ぼくは、望ましい「介助」だとか、「介助者」はいかにあるべきか、といった論議には、まったく興味がない…。

 じつは、ぼくにとって問題なのは、たえずぼくのところに来てくれる「介助」のひとたちとの、人間関係なのです。相手の意識がどうであれ、ぼくの側からは、お互いにそのありのままのいのちを“いかしあう”関係をつみ重ねたい。そうである以上、お互いに使いにくい設備を、そのまま放っておくわけにはいかないでしょう?
 「介助」をもっと具体的に考えて、たとえば食事の介助と、排泄の介助、さらに言って歯みがきや着替え、はたまたパソコン作業までを、すべて一人ひとりのひとにやってもらう必要なんて、ほんとうはありません。それぞれのひとが得意なことや、興味や関心のあることを、分担してやってもらえばいいのです。

 これまでも、ぼくはせっかく来てくれたひとを、迷いに迷ったあげく、介助者としては受け入れないという決断を、何度もしてこざるをえませんでした。その中には、たとえば精神障害を持っているために、一対一では介助は無理、というひとも含まれていました。

 “すまい方”(住居のあり方とそこでの暮らし方)の検討は、やはり必要です。それぞれのひとの暮らしかた、仕事のしかたを、かなり基本的なところで、枠づけているからです。
 ひとりひとりをばらばらにして、それらのひとびとをあるひとつの基準で斬るのではなく、お互いの固有のいのちを、ひとつひとつの関係の中で全体として結びあうこと。

 

 『ケア生活くらぶ』が、現実の課題としているのは、いわばそうしたことなのです。都内でのケア生活館の建設のための取り組みと、西伊豆での農場づくりを柱として。