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こんにちは.秋ですねえ。
えんどうさんの枕元にも
涼しい風が吹きはじめました。
それぞれみなさん、元気にやってますか。
さて、えんとこでは、
『奈緒ちゃん』上映会3月15日に決定しました!
北沢タウンホールで本格的にやります!
大きなカも小さなカもどっちもすごーく
必要です。大きいカ、小さいカ、どっちもあわせて、
実現させましょ、上映会。

1.「奈緒ちゃん」上映会呼びかけ人、基調演説。
 介助者のこと、「えんとこ通信」のこと、それぞれの時間のこと。
さいごに『奈緒ちゃん』のこと。    スーバー呼びかけ人:かうちまゆこ

 こんにちは。少し前からえんとこ通信の編集と介助者探しをやっているかうちです。どちらもはじめてちょっとです。まだ、会ったことのない人もいるかもしれませんね。

 なーんて書くと新人さんのように聞こえるけど、えんどうさんのところにはじめて来てからは3年経ちます。途中何度か行かなくなって数カ月ぶりに電話をもらい、ドキドキしながら訪ねたことや、あまりの忙しさに自分の健康を維持するのも難しく、えんどうさんのところに来る余裕(?)なんて全然なかったこともありました。その後、どういうわけかぽっかり時間ができまして、えんとこの編集と介助者探しをやってみようという気になったのです。

●(水を飲む)

 自分の生活が「振り回されない程度」にちょっとお手伝いしましょう、なんて思っていたのが、実際に始めてみるとあーら大変。今だって前日に泊まりの人を探したりして十分にやってるとはいえないけれど、それでも夜の10時から11時まで1おきに電話を入れて(これは現役のみなさんはよくご存知のところです)、見つからなかった場合は自分が入ります。ふーむ、こんなことを和田さんや池本さんはやっていたのか、こいつはたいヘんだ。
 と、こんなことを今頃言ってる私です。
 毎夜の電話に要らぬプレッシャーまでみんなに与えてしまってるかもしれない、と恐れつつ、介助者は確かに少ない。入ってはほしい。ひとりひとりの存在がとても貴重なのです。でも、ごめんなさいとか、すみませルとか言われるのはもっと苦しいぞ。入れなければいいんだって思う。とにかく楽にしてほしい。入って下さい、っていうのとなんだか反対のこと言ってるように聞こえるかもしれないけど、入れなかったり入りたくないなら、それはそれでいいんだって私は思います。大事なことはちょっとちがうとこにあるような気がする。
(深呼吸)●

 さて、このたび、私、『奈緒ちゃん』の呼びかけ人となり、どんな言葉で呼びかけていこうかとこれまでのえんとこ通信を読み返してみました。すると、こんな文面が目に入りました。1993年7月の22号の当時の編集者宮内薫さんの言葉です。
『(この日の介助者ミーティングは)いきなりのっけから「どうしたら平日の日中や夜の泊まりの介助者をもっと見つけられるか」という難問に皆で頭をしぽることになりました。(中略)もっと介助者の数を増やしたらどうだろうというので、その方法を話していたのですが、「当面大切なのは、現在いる介助者の横のつながりを高め、えんどうさんを囲んでみんなでたのしく介助しようという雰囲気を作ることではないか、そうすれぱ新しく入った人たちも介助に入りやすくなるだろう」との結論に達しました。
 同封した電話連絡網はその1つのあらわれです.名前だけで知っているというのではなく、お互い気軽に電話でおしゃべりできる仲間同士になれると良いですね』

 あんれ、これは私が介助者不足を改善すべく書こうと思っていた言葉そのままではないですか。はじめにもらった22号から今に至るまで、『えんとこ通信』では、様々な人たちが、同じようなこと繰り返し言ってるのです。ふざけたり、訴えたり、静かに語りかけたり、といった具合に実に様々なロ調でわいわいがやがやと。私が未だに把握していない、介助料や保険についても何度も説明してある(おいおい)。私、ほんとに読んでませんでした。ほんとにそれらの言葉は私に届いていなかったのです。
 今の「えんとこ」で、同じ言葉を書いたとしてもやはり届くとは限らない。なんでこんなに読んでなかったんでしょう? 私。
 えんどうさんに先日、「えんとこ通信」を迷惑に感じる人がいるなら送るのは辞めるからってえんとこに書いといて、と言われました。
 「えんとこ」を迷惑に感じる人・・・。こ、これはそのものずばり、ほんの少し前の私自身です。私は一時期、封を切ることも辞めてましたもの。ただ捨てなかったというだけです。「えんとこ通信」がくるとじわーっと罪悪感や疎外感が湧き、その反動で「いつまで送って来る気だろう」とこわくなるのです。特に、介助者が少なくて困っているとか、この間はこんな楽しい集まりがあった、なんてことが書いてあると、ヘっどーせ私は入りませんよ、想像力のないバカですよ、と、ますます続むのをやめました。何かを期待されている。でもその期待には応えられない、応えたくない、そういう苦しい感じ。こんなふうに気持ちのちっこさにかけては天下一品です。私にはこんな輝かしい経歴がありますから、ちょっとやそっとのこの手の人の気持ちには驚きません。だからここまで「迷惑」に感じる人はいないとしても、これに似た感情をもつ人がいるだろうことは容易に想像がつきます。自分がそうだったのだから、今の私の言葉が届いていないなんて十分すぎるほどあり得ることです。
 その私が立場が変わったからといって「迷惑に感じるならおしえて下さい」なんて「はーそうですか」とのんきに書きうつしてはいられません。もしそうされてたら、いま私はここにいないような気がします。
 今だってしょちゅういじけて、えんどうさんに愚痴こぼして、嫌われたかな? なんて、相変わらずちっこいことを思いながらやっています。でも、いまはここにいるのは嬉しいです。「いのちを生かす」っていうえんどうさんのメッセージからは遠いかもしれないけれど、今の自分はこんななんです。

 そこでお願いがあります。もし、迷惑に感じてる人がいるとしたら、どうぞ迷惑なんかに感じないで。これはただのそうだといいな、っていうお願いです。最後はどーしたってみんな好きにすればいいし、したくないってことの許されない自由は自由ではありません。
 たとえもう行かない、行けないと思ってても、えんどうさんやその周りの人たちが、あなたと同じ今をどんなふうに過ごしているのか、言葉を通して感じるだけだっていいんじゃないかな。私なんて封を切らなかったけど捨てなかったから「封筒の存在感」とつきあったって感じです。それでなんにもする気が起こらなくたっていいんじゃないか。関わりの形はさまざまです。極論すれば、そんな形の関わりがあったっていいのではないでしょうか。ちがうかな?えんどうさん。
 かの有名な矢野顕子女史もこんなふうに歌ってっています。
 ”あいするのはむずかしい。あいきれるのもむずかしい。いっしょにいたいね。それでもね。ほんとだね。じかんかかるの、あいするのは。”●(唄う)
  介助に入るとか入らないとかだけでない、もっと違った関わり形もあるのではないでしょうか。

(水を飲む)●

 そこで「奈緒ちゃん」であります。
 えんどうさんのいう「生かしあい」の形は、介助だけに収まるものでなく、もっともっと大きな広がりをもったものではないでしょうか。ここからは見えない遠くの、今から遠い先のことも含みこんだものじゃないかしら。「奈緒ちゃん」上映会は、介助だけでない関わりの形をゆっくりと広げていくための試みでしょう。普段は忙しいなどの様々な事情で介助に入れない人なんて、とってもいい機会です。チケットを売る、買ってもらうという具体的な行為を通して、実現できることありますよね。
 関わりの形は介助だけではないはずです。人の数だけ、関わりの形は違ってるはずです。それぞれ人によって時間の流れも違っている。物理的な時間もそうだし、人に近づいていく気持ちの時間も違う。ねとーっと近づいていく人もいるし、バチンと結ぴつく人もいるし、あっちいったりこっちいったりする人もいるでしょう。介助でもなんでも、その違いを認めて、ゆっくりやっていきたくありませんか。
 「奈緒ちゃん」の映画がいい映画だから見ましょうというのなら、みんなで見に行けばいいのですが(いろんなところでやってるので)、こんどやりたいことは「みんなで上映会を実現すること、その過程でいろんな人と生かしあう関係を広げていくこと」なんです。
 「奈緒ちゃん」は、感動お約束映画というより、どっちかっていうと見終わった印象はぼんやりしてる。なんか不思議な映画であります。それだけに見る人によって受け取るものも様々だと思うから、まずは見て、それからどうしようかなあと考えてみてほしいです。映画を見たときに広がるものがえんどうさんと一面識もないみんなの友だちや家族にも波紋みたいに広がっていくといいなと思います。余裕がなくて、手伝えないという人も、ちょっと見に来るだけでもいい週末になると思います。というわけで、見に来てね、10月6日の試写会。
 長々とご静聴、ありがとござんした。       ●(なリやまぬ拍手)

2.えんどうさん、伊豆ヘ行く。
 それでは、ここでロ直し(?)。えんどうさんの名エッセイ、伊豆旅行記をお楽しみ下さい。むちゃくちゃたのしかったみたい。だって、しばらく思い出し笑いが途絶えませんでしたから。んもう、こわいんだから、えんどうさんの思い出し笑い。

96年 夏 伊豆の海!   遠藤 滋
 今年も行って来ました。伊豆松崎はみかん山の上のホッタテ小屋!
 8月4日から6日間の日程でした。メンバーは、ぼくのほかにはスーバーおナス・あっこ、モンキー・とも、それに前半はNICEボケ・大場、7日からは交代してクンバカ大将・柳沼の、計4人でした。
 これまで以上に豊かな時間を心ゆくまで味わうことができ、もう、言うことなし。中4日の間に5ヶ所もの浜で泳ぎ、あちこちの温泉にもつかり、人数としてはぎりぎり最低限でしたが、同じ釜の飯をともに食った者どうしならではの仲となりました。ちょっとした事件も、今では笑える思い出です。水にはいることに対する抵抗感が全くなくなってしまっている自分を発見したこと、これまで何回もその脇を通りすぎていた温泉地に思わぬ穴場を見つけたこと。…書きたいことがありすぎて、とても書ききれない。これでまた一年間、何とかやってゆけます。みなさん、ありがとう!

穴場の羽目板
 貨物用のワンポックスにぼくの乗ったストレッチャーをくくりつけてだと、どんなにうまくいっても片道5時間はかかってしまう西伊豆の松崎。だからいつも最短距離をなるべく早く行こうとして、コースをまっしぐらに行ってまっしぐらに帰ってくる、ということになりがちです。決まりきった。
 今年ほ遊びながら、というのか道中を楽しみながら行ってみようと思い、厚木から小田原へでて、東伊豆の海岸沿いに南下して下田にいたり、そこから峠を越えて松崎へというコースを選びました。 小田原まではスイスイ行けたので、これはいいぞ、と思っていたら、そこから先は大きな海水浴場があるごとに渋滞続き。湯河原、熱海、伊東と進んでゆく間に、何度となくこれに巻き込まれました。そこから先はすいていて、車から見える景色も美しく、変化にも富んでいてなかなか快適だったのですが、白浜のあたりから下田の市街地までがまた渋滞。朝9時にでて、下田の駅前に寄ったのが午後3時でした。
 ケッサクだったのはそれから。とにかく暑かったので、どこかで温泉にはいって汗を流してゆこう、ということになりました。ぼくのナビゲーションのミスもあって下田に近い蓮台寺温泉の旅館街の中に入り込んでしまい、ぞの通り道沿いに入浴だけでも可、というところを探したのです。いくつか当たった中に、「ジャングル風呂」という怪しげな看板を掲げた旅館がありました。偵察役はモンキー・中尾。入ってゆくと、旅館の前におじさんとおばさんがいて、それぞれが大きなバケツと水の出ているホースを持ってなにやらしている様子でした。声をかけながら近づいてみると、バケツには大きなコイが入っていたそうです。「何人?」「男だけ?」「初めてだよね?」とおじさん。これだけでもますます怪しいでしょ。そのあとで妙な沈黙があって、しばらくして気のない低い声で「いいよ〜」
 しかし、その後すぐにおじさんは「・・・今、それどころじゃないんだよ。コイが死にそうなんだ」とひとりでぶつぶつ。この報告を中尾くんからきいて、「『初めてだよね?』ってどういう意味なんだろう。怪しすぎる」ということになり、ここはやめ。他にもいくつかあたったのですが、一人1000円などやたらと高いところばかりで、ぼくが「峠を越えてからにしよう」と主張し、再ぴ松崎へと向かう道路に戻ったのです。そのときぼくの頭にあったのは、同じ金を払うなら、西伊豆の海沿いの、たとえば堂ヶ島あたりで、駿河湾に落ちる夕日を見ながら温泉につかった方がさぞ気持ちがいいだろう、ということばかりでした。
 婆娑羅峠を越えて少し行ったところに、大沢温泉という小さな温泉地があります。何度も通っているので、道路沿いに看板があり、いくつかの旅館があるのは知っていたのですが、入ってみたら奥があんなに深いところとは知らなかった。渓流を7、800メートルさかのぼったあたりに源泉があり、そこに露天風呂があったのです。道路わきに車を止め、車椅子でやっと通れるほどの細い橋を渡ったところがその場所でした。ちなみに入浴料は400円。
 脱衣所が狭くて少し苦労はしたけれど、山の急斜面に囲まれたなかなか風情のあるいいお湯で、木々の葉の間に夕日の光がちらちらと見え、ヒグラシの声が聞こえたりして、ぼくはもう大満足。お湯は熱めでしたが、一日の長旅の疲れなどいっべんに吹っ飛んでしまう思いでした。
 ところが、そこは実は女湯との間が木の羽目板だけで仕切られていて、しかも水面下には何もなかったのだそうです。その晩、山の小屋に着いてからそのことがひとしきりにぎやかな議題となりました。スーバーおなすのあっこだけが、「あそこはヤだった」と言ったからです。その羽目板には、細いすきまもあって、そこから男湯にいる人の姿も見えたというのです。「そんなところから誰ものぞきゃあしないよ。もしあそこで一人でもぐっているヤツがいたら、いかにも異様だよ」とぼく。盛んにからかいあったところで、ともザルが「よし、ぼくは絶対もぐってやる」といったところでオチがつきました。
 それにしても、去年だったらぼくはそこへは行けなかった。なぜって、車椅子がなかったからです。ストレッチャーであの細くて長い橋を渡ることなど、できなかったでしょう。今年はこの車椅子が、大活躍しました。

ナイスガイ脱輪事件
 翌日に行った浜は、下田港と白浜とのちょうど間あたりにある、外浦海岸という入り海でした。白浜と同じように砂が白く、沖にはいろんな形の岩が一列に並んでいるように見え、それが天然の防波堤になっているのか、波がほとんどないのです。 なぜわざわざそこまで戻ったかというと、本当は前日にそのあたりに寄ってみたかったからです。西伊豆の松崎まで行ってしまうと、そこから片道約1時間もかけて峠を越え、東側の海まで出ようとは思わない。たまには、という好奇心が働いていました。
 きれいな浜でした。白浜ほどは観光化されておらず、それでも人はたくさん来ていたけれど、水も澄んでいて、なかなか気持ちがよかった。砂は白というよりは少し黄色みを帯ぴていて、そのせいか海も黄緑色に見えるのです。そこで海の中を歩いたり、ナイスガイ・大場やおたんこナース・あっこと同じ浮き輪に入れてもらってはしゃいだりして、すっかり子供心に帰っていました。
 松崎側に戻ってきてからの話です。今日も温泉に入ってゆこうということになり、堂ヶ島のホテルの2階にある浴場にはいることにしました。
 そこまで水着のままずっと車を運転してきたあっこが、「じゃあね」と女湯に入ってしまえば、こちらは3人。ぼくの身体を洗ったり、風呂に入れて身体を支えてくれたりしていると、他の二人はゆっくり自分の身体を洗ったり湯につかったりしている余裕もないほどの大忙しです。外風呂は露天になっており、そこからは海やそこに突き出た岩なども見えて、確かに気持ちはよかったのですが、二人は汗だくで、その汗がぼくの頬の上にまで落ちてくるほどでした。
 出てくると、あっこの姿がない。どこへ行ったのか、まだ出てきていないのか、などと言っていると、なんと、廊下の左側がロピーのようになっているところの、大きなマッサージ椅子にどっかと座って、しかもスポーツ新聞を読んでいる。その姿があまりに決まっていたので、思わず「あっこ、いたぁ」と叫んでしまいました。まるでどこかのオヤジのようだったからです。
 それはともかくとして、この夜、ちよっとした事件がありました。10時をすぎた頃、ナイスガイ・大場が「電話をかけたい」といって車でふもとの集落まで下りていったのです。ひどい山道とはいえ、電話のある場所までほ2キロほど。片道10分とはかからないはずです。それが、30分を過ぎても、帰ってこない。ぼくは心配になりはじめました。「まだ30分しかたってないじゃない。きっといろいろあるのよ」とあっこ。でも、あっこの長電話じゃあるまいし、かける先ははるかな東京だし、だいいち、暗くて人もほとんど通らないような所でそう長電話をしているとは思えなかった。「暗いところでひとりで運転をしていると後ろに誰かが乗っているような気がしてこわいんです。ぼく、そういうの、苦手なんですよ」と意外なことをいっていた彼の言葉も思い出していました。
 案の定、そのころナイスガイ・大場は山に戻ろうとして、山道に入りかけたところで車を脱輪させてしまっていたのです。集落をつらぬくメインストリートからこの山道に入るところは、二ヶ所あります。その二つの道が合わさったあたりまでは人家があるのですが、そこから急に道は真っ暗になり、両側から木々がうっそうとかぶさってくる。道そのものがいきなりまがっている、ということもあったのでしょうが、そういう心理的な圧迫感も大きかったのではないかと思います。
 川に落ちなかったのは幸いでしたが、にっちもさっちもゆかなくなり、彼は一番近くの人家に助けを求めました。「親切な人でよかった」とナイスガイ・大場は後で語っていましたが、佐藤さんという名のその人となんとか車を引き上げようとしたのだけれどうまくゆかず、結局電話であちこちに問い合わせてもらって、JAFに頼むしかないということになったようです。
 佐藤さんの車で彼が戻ってきたのは、11時半をまわった頃でした。問題だったのは、持ち金のことでしたが、仕方ないということになり、翌朝引き上げてもらうことになりました。払ったのは、ざっと25,000円。
 後日談ですが、伊豆から帰ってきてから、クンバカ大将の提唱で、「大場脱輪救済募金」というのをはじめました。あっことモンキーとぼくとで3,000円ずつカンバしても、払った額にははるかに及ばなかったからです。「コンビニの裏で腐りかけた弁当を食う日々をおくっているそうです」と募金箱にモンキーが書いたのが効いたのか、1万数千円が集まりナイスガイは大感激し「人の情けのありがたさをかみしめることができ、今では脱輪してよかったぐらいに思っています」と介助者ノートに名ゼリフを残しました。やっぱりナイスガイですねぇ。でも、このころから彼はだんだんとNICEポケと呼ぱれるようになりました。

砂のうんこしちゃった
 外浦海岸ヘ行った次の日、つまり脱輪事件の翌日には、今度は近くの岩地の浜に出かけました。ここは松崎から岬一つをへだてた岩に囲まれた小さな入り江で、去年、ぼくが浜辺でクラゲのような小さな虫たちにかまれて、背中じゅう血だらけになったところです。
 それでも懲りずにまた行ってみたかったのは、松崎の近辺でここが一番好きな海岸だったからです。外浦と違って、ここは海が深い緑色をしています。松崎海岸よりは水は少し冷たいのですが、澄んでいます。人もそれほど多くはありません。
 水温に体を慣らすコツを感覚で覚えてしまったので、去年のように波打ち際に寝かされているわけでもなく、虫に食いつかれるようなこともありませんでした。そこでやっていたのは、前日と同じようなことで。何も格別なことはありません。印象に残っているのは浮き輪の中にお尻を落として浮かんでいるあっこの笑顔が妙に絵になっていたのと、それをまねして同じことをやっていたモンキー。ともがくるりとひっくり返って海中に落ちてしまったことです。猿も木から落ちる、ではなくて、猿も浮き輪から落ちる、といったところでしょうか。それにしても、NICEポケ・大場の泳いでる姿は、カッコイイですね。
 この日は帰りに、松崎の町営の保養施設で温泉につかり、町で食料を買い込んで戻りました。
 次の日の朝早く、NICE・ポケは東京へと帰ってゆきました。クンバカ大将・柳沼がなかなかやってこないので、その日は一番近くの松崎海岸にすることにしていました。昼過ぎごろ出かけようとしているところに、ついにクンバカ大将到着。山道のあまりのすごさに不安になり、途中に車をおいて歩いて登ってきたとか。汗をふきふき、息をはずませ、顔を真っ赤にしていました。そのまま一緒に松崎の浜へ。
 観光開発と東海地震の津波対策をかねたのか、松崎海岸は防渡堤のあたりがすっかり整備され、去年までとはずいぶん様子が変わっていました。シャワー室やトイレまでが、防波堤に接して新しく造られていたのです。
 この日は温泉には寄らず、夜、山の小屋で風呂をたきました。モンキーとクンバカとが二人で薪をくべたのですが、クンパカ大将はなぜかしきりと感動していました。ここで何か哲学めいた回答があったのだけれど、それは省略します。
 それより、なぜクンバカ大将がクンバカ大将なのか、その由来についてご紹介しておきましょう。
 彼が来る前日のタ方、山道から小屋の方へ入ってくる入りロに、誰にも分かるようにとモンキー・中尾が看板を作ってたてておきました。「ケア生活くらぶ松崎農場」と書いて、矢印をつけるために上の方に横板もつけたので、ちょうどカルト教団かなにかの怪しげな十字架のょうな形になりました。これが発端。
 もともと彼は、ぼくらの予定に続いて、沼津でランニングの練習をするために宿がとってあったのです。ところが間際になってぼくらが一日予定を操り上げてしまったために、間が一日あくことになった。「シュラフも持っているし、一晩どこかで野宿をするよ」と最初彼は遠慮していたのですが、「せっかく雨露しのげるところがあるんだから、ここに泊まってゆけば」とぼくがいい、結局そういうことになりました。
 ぼくらが帰る日の朝、彼が「この道場で何かやっておくことがあるでしょうか」と言い出したので、ぼくほとっさに思いついて「谷底に太い竹が何本も切り倒してあるから。よかったらそれを上まであげておいて」と答えたのです。モンキー・中尾にわざわざ谷底まで案内していってもらいました。戻ってきて彼が言うには、「とても無理だよ。あれは水中クンバカより大変だ」
 もし彼がこれを一年前に言ったとしたら、これほどまでには受けなかったでしょう。今ごろこんな言葉が出てくるとは誰も思っていなかったので、一同大爆笑。それにしても、『農場』を『道場』と言い換え、それを『水中クンバカ』へと結びつけるところがいかにも彼らしいですねぇ。これがクンバカ大将の由来。それにしても、彼があの大きな水槽の中で、必死になって水中クンバカをやっている姿を想像してみてください。想像、できるでしょう?
 話はもとに戻って、松崎海岸に行った翌日のことです。この日は最初に、松崎からは少し南の方にはなれた雲見と言うところの浜へ行ってみました。旅館や民宿がたくさんある所なのですが、浜は人が多いわりには非常に狭く、どこに陣取っていいのか分からないほどでした。浜から海へ向かっての傾斜も強く、その上に入り江そのものが沖からくさぴ状に入り込む形になっているせいか、寄せる波も引く波もとてもきついのです。しかもやっと背が立つあたりにちょうど岩が出ていて、とても歩く練習どころではない。
 あっこと同じ浮き輸に二人で入って、ただ波にもまれている分にはそれでもよかったし、それだけで結構楽しかったのですが、やはり場所を変えて、石部というところに戻ることにしました。そこは雲見と岩地とのちょうど中間にあたり、浜は岩地と似たような形をしています。
 しばらく海につかっていたら、身体が冷えてきてふるえが止まらなくなったので、あがることにしました。ここには、海岸の横の方に、水着のままで入れる露天風呂があります。ちゃんとした温泉で、地元の人たちが管理しているのです。そこで体を温めていたら、今度は逆に少しのぼせてしまいました。
 駐車場に戻ってみると、さあ大変。そこの民宿に来た人の車が手前に止められてあり、乗ってきた車を出すのに大騒ぎでした。待っている間、ぼくほ車椅子に座ったまま、必死で腰の痛さに耐えていました。
 やっと車の中のストレッチャーに寝かせてもらって、ほっとしながらそこで着替えさせてもらおうとしたら、またまたびっくり。ぼくがはいていた海バンの中から、よくこんなにはいっていたと思うほどの砂が出てきたのです。海の中で歩いたり、温泉につかったりしていたのに、なぜ落ちなかったのでしょう。
 入ったのはたぶん、雲見の砂浜で座って、波をかぶったときだったのではないかと思います。車椅子に何度も座って移動したので、尻や腰がしびれ、それで気がつかないでいたのかもしれません。
 「びっくりしたぁ」とそのあと何かにつけあっこには受ける羽目になってしまいました。ちなみに、スーパーナース・あっこには、小屋ヘ帰ってからいつもの「陰洗」の要領で、きれいに洗い流してもらいました。

◎◎◎◎


●学園祭で、介助者募集のポスター貼り、ビラまき、やります。
 学園祭の日程が分かる人は中尾、和田他におしえて下さい。
 みなさんの協力ももちろん待ってます。

●会計は、平沢さんがやってます
 10年以上前からえんどうさんのところに来ている平沢さん。
 うたとお酒を愛するおねえさんと伝え聞いております。現在は、働きながら会計という裏方をつとめてくれています。平沢さんはこの仕事を進んで引き受けてくれていますが、「わたしがやりましょう!」っていう人がいたら、いつでも名乗りをあげてください。
 より詳しいことはえんとこ23号バックナンバーを見よ!

●「いのちの森通信」第2号発行のお知らせ
 ケア生活クラブの会報「いのちの森通信」の第2号がこのたび発行されました。定価は500円です。
 えんとこ通信を読んで下さっている方には全てにお送りしようと思っていますが、ケア生活クラブの会員でない方、よろしければぜひ500円カンバとして送って下さい。また、販売にもご協力ください。

(遠藤)

◎次のべ―ジは「奈緒ちゃん」試写会の細かいお知らせ。ごらんになってね。

 今号の担当はいつもの中間さんにかわって文章/編集とも かうちまゆこ でした。「基調演説」、なんとか読んでもらえたでしょうか。
 それでは、また。次の号で。 SEE YOU!


10月6日(日) 福祉センター研修室 「奈緒ちゃん」試写会

2:00〜5:00 その後飲み会

 1:30にえんどうさんの家に集合して下さい。おくれてくる人には、福祉センターヘの道順を玄関に貼っておくので自分で来てね。福祉センターは、えんどうさんの使ってるプールのあるところです。
(なお、、当日都合の悪い人はえんどうさんに相談して下さい)

「奈緒ちゃん」日程予定表
10月:スタッフ担当決め
1,チラシ/チケットについて
1,チラシ・チケットの内容決め
2,原稿作成
11月:
3,(中旬)チラシ・チケット印刷にまわす
4,えんとこを通じて案内
5,メンバーの注文受け、発送
12月:
6,忘年会・クリスマスバーティ時に配布。
1月:2,ポスターについて
1,ポスター実行委員会と手統き
2,印刷
3,地域・メディアに手続き
1,ぴあ・世田谷広報・××カレンダー等各種メディアに申し込み
4,当日のえんとこパンフレット作成
1,原稿作成
2月:
3,地域にポスターの張り出し 2,チケットを置いてもらえる場所を探す
3,チラシポスティング(その他・・・)
2,印刷・折り込み
5,15日までにタウンホールと打ち合わせ
3月:15日上映会

ケア生活くらぶ/遠藤滋&介助者グル―プ:
        奈緒ちゃんの上映会を実現しましょ委員会(仮称)
協賛)奈緒ちゃん応援団

コアスタッフ5名募集