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えんとこ通信 31号 1994年11月20日発行

遠藤さんへ

あなたが障害をもってこの世に
この時代に生まれたことを感謝します。
障害をもっていることで、
このマンションの このベッドでいつも横になっている。
だから 私は毎週会いにこられる。
もし あなたが健常者だったら
出会うことがなかった。
私は 相談する人もなく この広い
東京で、 1人悩み続けていたのかもしれない。
あなたが言語障害をもっていて よかったと思う。
ありがたい一言一言を聞きもらさまいと、
耳を傾けることができるから。
あなたが生まれてきて よかった。

池本 真理

(11月16日付介助者ノートより)

忘年会のお誘い
 9月以来、行われていなかった介助者のミーティングを兼ねて、忘年会をしようということになりました。日時は12月18日(日)午後3時からです。これには、当然のことながらみんなで準備する時間も含まれています。
 何をするかもまだ決まってはいませんが、そのことを含めて、よい案や、やりたいこと、食べたい物飲みたい物等があったら、考えておいてね!
 差し入れも大歓迎! でも、そんなことにはお構いなく少しでも時間があったら是非顔を見せてください。

 

 今遠藤宅は、数年前の活気を取り戻しつつあります。いや、それ以上かな。
 なにしろ介助者ノ―トは1冊が1ヶ月で終わってしまうし、前からそうなる傾向があったのだけれど、ここは前以上に「よろずお悩み相談室」と化してしまっている観があります。喜んでいいのか、嘆いていいのか・・・!
 でも、おかげさまで2年ほど前に勇 健輔君が書いていたような「暖かい場所」に、ここはすっかり戻っていますよ。ぼく自身が新しく学んだことや分かってきたことも沢山あります。いのちの肯定のメッセージを、ぼくは送り続けるだけですが、そのやり方もずいぶん変わってきて、格段にうまくなっていると思います。また来てみてください。
 昔と違うのは、例えば社会事業大学とか、サンシャイン社会福祉専門学校とか、特定の学校に介助者が片寄っていないことです。いろんな学校や、いろんな職場の人が集まってきてくれているので、一つのまとまりをつくるのは難しいところもありますが、かえってそれを生かせば幅広く豊かな人間関係を創ってゆけるでしょう。
 なお、みんなに手伝ってもらって1年がかりで書いてきた文章、「芝本さんと私」。やっとできあがりました。この文章自体がどう生きることになるかはまだ分かりませんが、とにかく一段落がついてせいせいしました。次に書きたい文章のことをもう考えているのですが、そっちのほうがもともと本当にとりかかりたかったものなので、やっとそれができる、と意欲を燃やしているところです。よろしく!

COMMUNICATION & IMAGINATION
 コミュニケーションとイマジネーション。
 どちらも人間関係には欠かせないものだ。しかし、最近若い世代になればなるほどそれらが苦手な人が増えているような気がしてならない。
 年寄りみたいなお説教をするつもりは全くない。状況がそうさせているのもよく分かるし、そういう状況を作ってきてしまったのは今の大人たちだ。ぼくらがあと10年早く今の結論を自分のものにできていたら、ともどかしくも残念に思うこともある。
 苦手というよりはその必要性があまりないところで育ってきてしまったせいで、経験が不足している、といった方が正確かも知れない。かつてはそれは親や養護学校に隔離されて育った障害者だけに限定された問題だった。今やそれが全体化してしまっているのだ。
 加えて偏差値で人を振り分ける教育。テレビなどのマスメディアを通して洪水のように向こうから押し寄せてくる「作られた」イメージ。それらが今、本当の生活を、そしてそれに必要な直接的な人間関係を代行してしまっている。
 さしあたってはそれでいいかも知れない。でも、実は寂しい人が増えているよ。だから目の前にいる人が本当はどんな人なのかを知ろうとする前に、勝手に「作られた」第一印象だけで人を振り分けて、小さなところで浅く固まろうとしてしまう。フィーリングさえ何となくあえば。
 恋愛についてもそうだ。相手を知る前にやたらとカップルを作りたがる人が多いのがぼくには思議で仕方がなかった。いったん誰かと誰かがそんな関係にあると周りが認めると、あえてそこには誰も入っていかないのがルールのようになっている。でも、例えばもしそれが発展して結婚ということにでもなれば、それだけですまないのは明らかだ。なにしろそれは生活だからね。文字どおり一生の送り方がかかっている。
 というわけで、さて、みなさん! せっかくぼくのところに「介助」にきてくれたのだから、コミュニケーションとイマジネーションとの関係をあらためて考えてみませんか? そしてそれらの必要性を感じていってくれませんか?
 「介助」はそれらぬきでは成り立たないものだから。コミュニケーションは、相手に対するイマジネーションを働かせないとありえないことだし、イマジネーションもコミュニケーションなくしては十分には働かない。これは、相手と自分の立場を繰り返し逆転させて物事を見る、ということでもある。本来の意味での「思いやり」という日本の言葉は、実はそういう意味らしい。
 さいわい、ぼくは障害者だとか、健常者だとか、そういう壁をすっかり取り払っていきると決めた人だ。いのちを肯定し、本音を裸にして、今もこうして生きている。
 ひらかれた人間関係に支えられないと現実に生きてはゆけないぼくなのだから、それらの必要性を感じるには持ってこいだよ。
 「よろずお悩み相談」にいやおうなく応じながら、そんなことをずっと考えていたぼくでした。
 ついでに言えば、コミュニケーションの手段は、なにも言葉だけとは限らないんだよ。それも感じてもらえば、なおうれしい。

(遠藤)