生活に人の手が必要な人の生活介助・寝たきりの人の生活介助など、行政に耳のかゆいところにも手が届く答えを求めてもこれまでに求めた答えが返ってきたためしがあっただろうか。少しは骨のある人が議員になってもっとうまくやれば、本当に求める答えが返ってくるのか。今、その答えが返ってくるという予感・予兆が私たちの目の前にあるのか。いまの社会はシステムとして本当に使い物になるものなのか。
どうするにしても、自分で答えを見つけ出さないでおいて、ひと(他人)に何かを期待するやり方に未来はない。ひと(他人)が答えを出してくれるのを待つのではなく、自分から現状をどうするか答えを見つけよう。
生活に人の手が必要な人の生活介助・寝たきりの人の生活介助などに人と人が応えあうにしても、生活空間が離れていてはその気があっても実行できない生活を送りあっている。このネックになっている住宅問題に手をこまねいていて肝心なことが本当に解決できるのか。人と人が生活の中で応え会う関係を広く・深く織りなすために、私たちは「ケア生活くらぶ」をつくり、『ケアを前提に生活しあう共同住宅』を創ろうという呼びかけをしています。だが、実現できる展望が見えないから手を出さないのか。それともそもそもやろうとする意思がないのか。
私たちはそこへ至る方法として、「日本の公共の建造物と私たちの住宅の調査」(そのための調査票はすでに作成済)を行い、この調査から、これからはどんな建造物や住宅を創っていくことが人を排除しないシステムに近づけるのかという、自らの答え(方策)を見つけ出す。その結果をもって、どのような『共同住宅』を創ればよいのか、建物の設計図を創る。そして、本格的な資金作りとモデルケースを創る土地探し。いざ建築へ。というシナリオを想定して、私たちは動き出しています。
現状に不満を抱いている人よ。眠りを貪る時代は終わった。あなたの登場する舞台がここにはある。未来を築き上げようという人よ。ともに「ケア生活くらぶ」のネットワークをつくろうではないか。
<< 伊豆の農場にて >>
白砂巌
すっかりご無沙汰していますが、いかがお過ごしですか。元気でご活躍のことと思いますが、お変わりございませんか?私が伊豆のみかん山と東京を行き来しながら過ごしている関係で、最近はお目にかかる機会がめっきり少なくなり残念に思っています。
私が友人の遠藤滋氏と伊豆のみかん山を手に入れてから早3年。それだけの時間にみあうものを、この3年の間に刻み込んでこれたかどうか、はなはだ疑問ですが、時には「大事」に至りかけるあぶない場面に直面することがあっても、これまでどうにかこうにかまだ無事に過んでいるという実感の中で、一日また一日と自分の時間を刻んでいます。
伊豆の農場では、今年も5月の連休に、私(たち夫婦)は、遠藤滋氏と介助の仲間を含め10人を超える人を迎え、山の農場で過ごしました。今年は雨にたたられたこともあって私たち夫婦を残して、2泊で切り上げてそれぞれ帰っていきました。でも、それを迎え見送った私たち夫婦にはめまぐるしい3日間で嵐の過ぎ去った跡のように、2日ほど虚脱状態が続きました。
1、甘夏の収穫
今年、農場では、4月〜6月にかけ、甘夏の収穫期となり、慣れないにわか百姓のまねごとではあっても雨の合間をぬいながら、みかんの収穫・荷造り・出荷・枝の剪定・草刈り・畑つくりと、その合間の土木作業(山の土を削り、谷に石垣を作りながら埋める)を気長に続けています。私には、体力的にきつい思いをしての作業でしたが、今年も甘夏の産地直送販売には、130ケースに届く注文をみなさんにしていただき、どうもありがとうございました。おかげで、伊豆での資材購入・その他の経費の赤字を35万円ほど減らすことができました。
しかし、少ない人手では手入れをやりきれず、実も収穫しきれないにしても、毎年、律儀に実りをもたらしてくれる甘夏を、一つでも収穫して、希望する人には大いに食べてもらおうと思うのも正直なところ。しかし、私たちが夫婦で(時には私の両親の応援もえながら)、伊豆で3か月かけて、それでやっと35万円となると、これでは、東京で仕事に精を出した方が、余程お金になるのも事実。私たち(夫婦)で、苦笑して話しています。
今年は200ケースを目標に、去年までの伊豆での赤字(資材費などでかかった経費)をすべて解消するつもりで、2月に甘夏注文の葉書やチラシを作り準備していました。
そして2月中旬から、6月20日まで(途中5月下旬の13日間東京に戻っていただけで)ずっと伊豆の山で生活しながら、体を動かしてきましたが、しかし気持ちとは裏腹に、「この上100ケースみかんの注文があったら体がもったかな?」「とてももたなかったかもしれないね」というのが、私たち夫婦の実感でした。
2、山の中で大けが
しかも、この3月には、伊豆の山での作業中、電動の丸ノコギリで、利き足である右足の大腿部を13センチ(深さ5センチ)ほど切断するケガをしました。幸い、ケガの大きさに比べて、直りは早く大事には至らなかったのでホッとしているところですが、その日(3月5日)の午後5時には、病院のべットの上でした。ケガをしてから、「このケガが大出血サービスをしたら、死んでしまうかもしれない」と、思っていました。ケガをしてからべットに落ちつくまでの2時間ほど、いろんなことが頭の中をめぐりました。
これまでに私も死ぬかもしれない目には何度か会っており、その度に無事生きることができている自分を運がいいと思っています。
幸い、この時のケガも、出血が少なく、痛みもさほどなく、筋肉の一部を切断することはあったものの、傷の洗浄・筋肉と傷の縫合(13針+筋肉の分を縫いましたが)の手当てを受けたあとは、破傷風などの感染の心配があるということで12日間入院しました。そして、ケガから3週間たたない内に、再び自分で車の運転ができるまで、自分でも予想外の回復を見せてくれました。
3、集中豪雨で崖崩れ
また7月5日(1993年)の集中豪雨では、伊豆の各所で山(崖)崩れ・土砂崩れがありました。この日の豪雨の影響で下の集落から山の農場に至る山道でも崖崩れが5箇所も発生し、農場内の山でも早朝、山道から農場に入って15メートルの入口付近の、これまで削ってきた山の斜面の土砂が、雨がしみ込んでできる地下水の湧きだし口から湧きだした水の勢いに押されて、湧きだし口の周辺で崩れて通路の入口(車の出入り口)が、丸一日ふさがってしまいました。次の日、水を含んだ土砂を取り除く(谷のみかん畑に移動して谷を埋める土砂にする)作業をしました。この作業の時にも私は、土砂を運ぷ土木用キャリーごと崖下にひっくり返るという危ない目に遇いましたが、かすり傷を負っただけで、このあと、一日の作業でなんとか車が農場の外へ出れるようにしました。
これまで山の農場で私は、機械(バックホーと土木用キャリー)の力を借りて、谷を埋めて平地を拡げる作業をべースにしてやってきました。作業とはいっても、山の土砂を削り・出てきた石で谷に石垣作り・削った土砂を石垣の手前に落とすことの繰り返しの作業です。この作業をしながら私は、「人は縄文の昔から自分たちの生活空間として平らな土地を求めて、この地球に手を加えてきたのではないか・・・」とつくづく感じます。
しかし人が昔からそうしてきたとしても、この地球の自然の力の前では人は無力です。大雨・地震・山崩れなどの自然の力を前にすると、私たち人間には成す術がありません。けれど地球が、人の生活やいのちを土台からひっくり返してしまうことを繰り返すことがあっても、私たちが、この地球の自然の恵みによって生かしてもらっていることも事実。 人によっては、できるだけこの地球の自然に人の手を加えないほうがいいという人もいます。確かに、全くの自然に任せておいた方がよい自然環境もあります。実際、30年前にみかんの段々畑に開墾された山は、人の手が入った結果かどうかは知りませんが、各所で土砂崩れの跡が散見され、現在でも大雨の時には段々畑の土砂が流されて崩れている箇所をあとで発見することがあります。
しかし、人の手が加わる加わっていないのいかんにかかわらず、自然が猛威をふるった時には、どんな山も成す術もなく崩れるに任せるしかありません。そこで、時には自分でも自問自答してみることがあります。「これ以上、私もこの山に人の手を加えない方がよいのかも」と。しかし、私たちがここを農場として活用していく以上は、もっと平らな空間(土地)がほしいという私の気持ちに変わりはない。そこでこれからも、山の土砂を削り、石を積んで石垣を作り、土砂を運び谷を埋めていく、という作業の繰り返しを、いましばらく私は続けていきます。
4、山の上にも3年
ご存知のように、私と遠藤滋氏が、伊豆の甘夏のみかん山を手に入れてから、もう3年という月日がたっています。ところが、年々体力が低下していくという現実からは逃れられません。私も遠藤氏も、今年46を数える歳になりました。年配の人からは「まだ若い」と言われるでしょうが、つくづく、体力というか、体を動かすことへのねばりが、20歳のころとは格段の差が出てきたなぁ・・・と感じてしまうこの頃です。「まだまだ若い」と思う反面、「もう若くはない」というのが実感です。
この年齢のなせる業なのかも知れませんが近頃、私は夜眠れないことがあります。伊豆の山にいる時は、外にあるトイレで、夜中の一時、二時頃まで、空の星を眺めて、もの思いにふけることがあります。東京に戻っている時も、夜中にまんじりともせず、もの思いにふけることさえあります。
最近、伊豆の山にいる時も、テレビの電波を通して「改革、改革」という合唱が伝わってきます。この合唱の熱気(?)に、うなされている訳じゃないが、一人チリチリとしたジレッタサ(これを〔ジレンマ〕とでも言うのでしょうが)に、私は体を引き裂かれそうな気分になったりしています。だからと言って、あせっているやっているつもりはないのですが・・・。
私の3月のケガにしても、入院中の検査で血糖値が高くなることが判って感謝しているくらいです。以後、食事のカロリー量を減らして生活するようになり、3月〜6月の間に体重を7Kg減らしました。これから先、自分がどれだけ生きれるか知らないが、どれだけ生きれるにせよ、自分の運のままに、これから先の時間の中で、自分がいま実現したいと思っていることを、一つ一つ実現して生活できるよう、自分の体の状態についても少しは気を配って生きていく必要を改めて知っただけでも、ケガの光明と思っています。
5、難問を前に
しかし、現実には、ぶつかっている難問も小さくありません。こうした難問は、内容の差こそあれ、誰彼なくぶつかることですが、いまほど自分の力と体力のなさに、私は立ち往生してしまいそうになります。
わが、盟友である遠藤滋氏にしても、8年くらい前から、頚椎にある神経の骨からの圧迫によって、しびれや緊張による痛みの出現に、それまで自分で歩いていた生活ができなくなり、現在では、椅子に座っていることもできない状態で、寝たきりの生活を余儀なくされています。場所が場所だけに、簡単に手術にふみきることもできず、さりとて、このまま状態が悪くなるのを黙って見過ごしているわけではありませんが、実際は打つ手がほとんど限られているのが現状です。
彼はいま、他人(ひと)の介助を得て、一人ぐらしを続けていますが、介助の手は充分ではありません。最近、大学が都心から郊外に移転する傾向が続いており、それに輪をかけて、最近の東京の住宅事情から、学生の生活の場が、都心からどんどん離れていってしまうことから、現在世田谷で生活している彼は、慢性的な介助者不足に陥っています。幸い両親が健在で、近所に家がある関係から、介助をしてくれていますが、もうお二人とも若くはありません。いつまでも、お二人の負担に負うこともできないでしょう。
4年くらい前までは、私も少しは彼の介助をしてきたのですが、伊豆の土地を手に入れてから伊豆と東京を行き来する生活をしていることと、自分自身の体力の低下から実際の介助をすることができなくなっています。
つくづく、生活の場が近ければよいのにと思います。東京にいる間だけでも少しは手を出せるのに。だが文京と世田谷では、ちょっと自転車で行ってどうこうできるという距離ではないし、彼のところへ顔を見せることさえ、普段の生活の中で実行できなくなっています。これでも以前は、1,2週間に一度は顔を会わせていたのに・・・。
6、日本の住宅事情
彼の生活から言えば、現在の住宅は経費の点からも、介助をしてくれる人を募る点からも利点は少ないということもあって、去年から今年にかけて、立川周辺で、都営住宅などの公営住宅を申し込むことも含め、住まいを探してみたのですが、結局、現在までのところ、新しい住まいを借りることもできず、さりとて、いまいる住まいを寝たきりの状態でも生活しやすくすることもできないままでいます。
こうした住宅事情はご存知のように、障害者だけが味あわされていることではありません。一人暮らしの年配の人や、外国からの留学生や出稼ぎの人・日系人も、そうしたあからさまな閉め出し(差別)を受けています。そればかりでなく、こんなことも起きています。それは、去年のことですが、愛知県の公団住宅に長年暮らしてきた年配の夫婦が、家賃の滞納などを理由に裁判にされ、明け渡しの決定が出て、追い出される事態に至って自殺するという事件が報道されました。
新聞記事以上の細かい事情を知りませんがこのことを知った頃、私は「日本の社会はすでにシステムとして腐ってしまった」と感じ強い怒りを覚えたものでした。これが20年も前のことなら、「政治や社会が悪い」のひとことで、私も片づけてしまっていたことでしょう。ところが、こうした状況に怒りをぶつけたところで、私たちは、未だに政治や行政の責任とは別の、自分の責任を感じて、そうした事態に自分たちで対処し、解決する「自分たちの場」を作っていません。
また、伊豆と東京を行き来している人間には、突然ふってわいたように、自分の住んでいる文京区のなかにも空き地が出現していることがあります。空き地となっていく土地を見かけると、最近、バブル経済がはじけたとはいえ、未だに地上げが続いていることを実感します。
でも、そうした空き地には、必ずといっていいほど、第二次大戦前後の一時期、空き地や雑木林であったなごりの、その当時繁茂していたと見られる雑草や雑木・桐の木などが忽然と姿を見せ、植物のたくましさに感動を覚えることがあります。
7、今こそ共同住宅を
その反面、またここで年老いた人たちが、生活の場を追われ、理不尽な扱いに、いやな思いを味わったのでなければいいのだがという思いに駆られます。
こんなニュースを耳や目にするにつけ、自前の「共同住宅」を一日も早く作りたい とつくづく思います。少なくとも、私たちが自分たちで作り上げた空間では、人をはじき出すことだけはしない・・・のに。
私たちの「計画」に、人がどんな感想を持つにしても、私たちは、この「共同住宅」作りを何とか実現したいと考えている。私は、これを実現するために、いま自分の体が2つも3つもあればいいと思う。そうすれば、もう少し今より一歩でも二歩でも何か進展させることができるかもしれない。と思う反面、そうであったとしても、自分たちだけの力量ではどうにもならない現実があります。
私たちは、いまこのジレンマの中で、はっきり言ってもがいています。あきらめるには早すぎる。さじを投げるほどは何もしていない。しかし、「そのうち・・・(なんとかしよう)」では遅すぎる。
8、いのちを生かす
そもそも、私たちが、この「共同住宅」作りと「伊豆の農場」作りをスタートさせたキッカケは、二人の間でそれまでそれぞれに異なった空間を生きてきた体験の中で感じてきたことを突き合わせ、議論して、これからの人生をどう生きていくのかを、決めたことによります。
それは、これまでの自分の生き方や処し方がどんなものであったにしても、これからはともかく、『自分自身がどんな「生命(いのち)」のあり様をしていても、この自分の「生命(いのち)」を自分で否定することなくとことん生かして生きていこう』。
そして、『「他人(ひと)」のどんな「生命(いのち)」のあり様も否定することなく「他人(ひと)」との間でもこの「生命(いのち)」をとことん生かしあって生きていこう』ということでした。
私たちは、他人(ひと)や社会のどんな状況や場面にあっても、「生命(いのち)」を生かしあうことだけを貫いて生きていくことで、自分の「生命(いのち)」を否定せずに生きることを貫いていこう、としています。 そこで、それを体現するものとして、私たちは、「生命(いのち)」を生かしあう生活の場として「共同住宅」の建設を考え、「生命(いのち)」を生かす自分たちの農場として手始めに「伊豆の農場」を作り上げようとしています。
私たちは、自分たちの体験を通した、障害者が置かれてきた状況から「共同住宅」の建設を発想するようになりました。だが、障害者の生活のための場として「共同住宅」を考えているわけではありません。年配の人や若者はもちろんのこと、一人ぐらしの人や夫婦・子供と暮らしている家族も含め、自分の生活の場を通して「生命(いのち)」を生かしあい、さまざまな介助の手助けをしあえる場を、共同の仕事(「共同住宅」の建設)として実現したいと思っています。
さらにこの「共同住宅」では、留学生など海外からの人にも開かれた空間を確保し、これまで、街からさまざまな事情で排除され、行き場をなくした人にも開かれた生活の場としてこの空間を確保したいと思っています。
そして、このことがキッカケとなって、新たな地域・新たな街を、日本のあちこちに実現できれば・・・と思うのです。
1993年記す
<< いのちの杜の4年の歩み >>
1、土地を手に入れて
私と遠藤滋氏が、農場を作る土地を手に入ようと二人で動き始めたのは1985年くらいからだったろうか(私はそれまでにも一人で土地探しをしていて何回か伊豆を訪ねていた)。
始めのうちは、とにかく下田の裁判所の競売物件を手当たり次第に一人で探しまわって、ふた月に一度くらいの割りで伊豆がよいをしていました。
そして、目ぼしい物件があると、時には遠藤氏と介助の人を伴って現地を見に行ったりしていました。
その後、南伊豆町の吉祥という部落を中心に、土地探しをしているという「チラシ」を個別配布したことがきっかけで知り合った馬場さんを通して、伊浜の斎藤さんという方を紹介していただき、馬場さんや斎藤さんを通じて土地探しをお願いしていたところ、照会を受けたのが、この松崎町の甘夏のみかん山でした。
手に入れる土地として唯一の落とせない条件(車でその土地の中に入れること)をクリヤーしていたことから、私たちは、このみかん山を購入することに決めて、この山の地主になりました。
松崎町のみかん山は、八木山という部落を南に向かって登った山の中腹にあり、みかん山の本体の山は、地質の上で、蛇石火山と呼ばれている山で、火口にあたるところは沼になっており、昔は、八木山の部落の人も田んぼとしてそこの土地を所有していたということで、胸まで水につかりながら米作りをしていたそうです。
いまは、その火口の土地は、地元の人の手から離れていますが、その火口の沼の水は、周辺の松崎や南伊豆町の人の生活用水の水源となっています。私たちも、その山から湧き出る沢の水をホースでひいて、水源として活用させてもらっています。
また、私たちのみかん山は、60年代始めに三人の人がみかん山として開墾した一帯の一画で、私たちはそのうちの一人(清水市在住)の人から譲りうけました。後でわかったことですが、この地主さん、実は、遠藤滋氏の親戚関係に当たる人でした。
そして、私たちのみかん山の更に上のみかん山は、不動産業者を通して、今では19軒の家が建つ別荘として分譲され、定住している家も何軒かあります。
何年にもわたった土地探しから、私はようやく解放されるとホッとしたのも東の間、今度は、いきなりみかん山の地主になってしまったことで、さて、このみかんをどうしようか?そこで作って配ったのが次のチラシでした。
ケア生活くらぶ『いのちの杜(交流)農場』
建設地の甘夏はいかがですか?
わたしたちは、何年か前、農場を作りたいと思いたち土地を探してきました。そしてこの4月に、伊豆・松崎に2880坪の土地を確保できました。
わたしたちの計画は、車いすで生活している人が加わることを前提にこの農場を運営し、工房〔焼物・木工・染物など〕や農場〔畑・果樹・動物の飼育〕や生活・宿泊棟を作り、必要に応じて図書室やリサイクル室などを設け、ケア生活くらぶの会員とその家族で活用する計画です。
そして、農場に滞在するひとは、農場の野菜や山菜を食べてすごし、工房では、自分の創りたい生活用具などを作れるようにする計画です。そして、いろんな人と交流し合うなかで、自分たちの人生を自分たちの手で豊かにしたい・・・と考えます。
わたしたちが確保した土地は、現在甘夏のみかん山で、この甘夏を今年の収穫からこれまでの地主さんから引き継ぎました。そこで今収穫期に入っている甘夏を5月〜6月にかけて、15Kg箱入3000円で産地直送することにします。また、甘夏のみかん狩りも受付ます今年の甘夏をぜひ買ってください、売ってください。そしてあなたも「ケア生活くらぶ」に参加して、『農場』創りに智恵と肉体を発揮してみませんか?
1990.5.1
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2、最初の年の甘夏の報告
ケア生活くらぶ『いのちの杜』農場建設地の甘夏はいかがですか? で始まった、5月からの伊豆のみかん狩り「騒動」も、7月20日・21日の遠藤滋と九人の仲間たちの旅行でようやく一区切りつけました。収穫したみかんは、だいたい5トン強(実際に収穫した量はもっと少なかったかもしれない)というところでしょうか。それでも、まだ手つかずの甘夏が、これまで収穫した分くらいぶらさがっていて、朽ちて落ちるに任されている。
4月に、いきなりみかん山の地主になった時、地元の人の話に10トンくらいとれるだろうという見立てを聞いていたとはいえ、収穫を控えていたみかんも「どうぞ」ということになり、どれくらい取れるやら、どれくらいなっているものやら、皆目見当もつかず、無理のないところでやれるだけやろうという意志で、始まったみかん狩りでした。そうは言っても、そこは肉体労働をともなうもの。みかん狩りに参加した、私や私の家族、友人たちは、始めの内は、体がついていかず、とにかく疲労だけがたまったものでした。
これからの予定としては、いよいよ土地の造成に着手するために、ショべルカーを探す(中古を買う線で)。A第一期の工事として進入道路の高さに、下層部のみかん畑の一部を、宿泊用プレハブ設置場所と畑用に造成。Bトラックとワゴン車の購入・宿泊用プレハブの購入。C井戸掘り。D敷地の上層部の造成。E他の果樹などの苗の植付け・畑づくりの開始へと作業はひとつひとつステップを踏んでつづけていくことにしています。
当初の腹づもりでは、7月いっぱいまでに宿泊用プレハブの設置にこぎつけたかったのですが、なにせ、目の前のみかんに目を奪われて、みかん狩りにエネルギーを吸い取られてしまった、というのが実情。
1990.7.31
3、農場の先住民
今回は、伊豆の『いのちの杜』農場建設地に息づいている「いのち」たちについて書き出してみよう。
何はともあれ、元は山林だったもの(杉林だったらしい)をみかん山に開墾したところなので、その時に植えた甘夏の木が、なんと言っても、ここの主の地位を確保している。一体、何本あるのか見当がつかない。一本の木に平均30Kg(約80〜90個)の実がなるとすると、10tほどの甘夏の収穫が見込まれるので、300本以上の木が植わっていることになるが、現実には、それほどの数の木が植わっているという感触は私にはない。実際、木によっては、40個くらいしか収穫できなかったものもあれば、その三倍くらいの収量があったのではと思える木もあったし、木によるバラつきが随分あった。これは、木の植わっている場所の日当たりの良し悪しがはっきりとした影響を与えているようである。
次に目につくのは、みかんの木の間から、背高くそびえている杉の木である。この場所が開墾される時分に植えられた杉の木が、みかんの木と共に25年の歳月を経てきたもの。主だった、太く、大きいものは、20本は下らないと思うが、厳密に数えたわけではない。しかしこれらの杉は、みかんの木の間でみかんの木に影を落とし、空もふさいでいるものもあり、10月になってから、大半を、地元の山仕事専門の田口さんに伐採をたのむことにしていた。細い木ならいざしらず、これらの太い大きい杉の木(太いもので直径が最高60cmの杉もあった)は、とてもにわか山師には歯がたたないからである。また、10月になってからというのは、10月になってから切らないと、杉が材木として使えないという、田口さんのアドバイスによる。やみくもに切って、何の用途にも使えなくするのは、私たちの主旨でない(現実はその後チェンソーを購入して、開墾の作業に邪魔になった木から一本一本自分で切っている)。
その次に竹について書いてみよう。竹は、孟宗竹と真竹がある。孟宗竹は、下の山の竹林の孟宗竹が、私たちの農場のみかん畑に根を進出させて育っているものである。真竹は道沿いの山の斜面に植わっているが、古くからここにあったのか、それとも、前の地主さんが植えたものなのかは分からない。他に、直径が1cmほどで身の丈2mを越える細い竹もあるが、この農場では、雑草に近い形で生えている。この春と、6月にかけて、孟宗竹と真竹の竹の子を竹の子御飯などにして少しは楽しめた。
1990.7.31
4、1990年〜1991年にかけて
1990年6月頃、私の父と私とで山に生えている竹を使って三畳ほどの雨よけの避難スペースを作り、その後ビニールで囲って、屋根の下にテントを張り、プレハブの組み立てが完成するまで、そこで寝泊まりもしていた。
9月14日群馬県の沼田に住む鈴木氏より譲り受けたバックフォーが土木用キャリーと共に伊豆の山に届き、翌15日にかけて、鈴木氏の操作で山を削りはじめる(バックフォーと土木用キャリーの操作の教習を兼ねて)。始め、車が通る時に邪魔になっていた崖の足元に露出していた石を掘ってどかそうということになり、掘ったところ、縦横高さがそれぞれ1m50cmを超える大岩が出現してしまった。この岩は、3.5tのバックフォーで引きずってようやく動くという重い岩だった。
その後、一人でバックフォーを操作して、山の段々畑の一画の崖を削り谷に土を落とし、石が出るとそれを石垣に積み上げるという作業を続け、取り合えず12畳のプレハブを設置する空間を確保し、1991年1月9日から石部の温泉で知り合った大工さんや、農場のある山の尾根に接した隣で、夫婦でログハウスづくりをしていた人に基礎工事をやってもらい(私はほとんど補助的な仕事しかできなかった)、その後一人でプレハブの組み立てに取りかかり、1月26日に組み立てのおおよその完成を見て東京に戻った。
5、1991年の主な作業
1月 プレハブを組み立てる。
3月4〜5日 遠藤氏一行(総勢7人)山の農場へ(宿泊は民宿)
3月28日〜4月1日 川崎の阿部氏が来て、台所を作る。
4月〜5月 甘夏収穫
5月18日 電気が使えるようになる。
5月 山への来訪者・連休中の宿泊者重なる。
6月 (北海道へ個人旅行)
8月11日 町田の村上氏や甥の敦司と沢から水を引く工事
8月 (袴田巌を救う会の仲間と国連人権小委員会「スイス」へ)
10月7〜9日 遠藤氏一行(総勢九人)の車の運転で山の農場へ
10月 (十二指腸潰瘍の出血で入院)
10月23日 遠藤滋氏の介助をしていた小山洋子ちゃん急逝。
他に伊豆に滞在している間の主だった仕事の合間に土木作業
(山の土を削り・出た石で石垣を積みあげる)を続け、簡易水
道の手直しを重ねた。
12月28日 ケア生活くらぶ賛同人・牛越公成氏死去。
6、「提案します」の発送と会員の募集を始める
ごぷさたをしておりますが、お元気ですか。
過日、私たち『ケア生活くらぶ』の企画について、さまざまな検討をかさねてきましたが、いよいよ準備も整いパンフレットの印刷ができましたので、『ケア生活くらぶ』を発足させるべく会員の募集を始めます。
去年は、わたし(白砂)は、伊豆の地では1月のプレハブの基礎工事と組み立て作業に始まり、みかん山の谷の一部を、石垣を積み上げながら土地を平坦にする埋め立て作業を続けながら、5月のみかん狩りを含め5月までは、月の内3分の2は伊豆暮らしをしていました。5月には電気もきて、8月には山の谷川の水をホースでひいた、簡易水道も設置しました。
また、今年は、4月ごろより「−障害者を排除しない建物・交通システムとは?−」をテーマに、日本の住まいと交通機関・公共の建造物に関する調査を開始する予定でいます。さらに、資金のメドをたてて、日本との比較のために、ヨーロッパ・アメリカなどにも調査隊を組んで出掛けてみたいと思います(だがトヨタ財団・三菱財団の援助が受けられなかった)。この調査によって、私たちが造ろうとする「ケアを前提に暮らしあう共同住宅」を設計する基礎資料をえようというものです。
一方、伊豆においては、土地を平坦にする作業の第二段階としてみかん山の谷の部分の奥をさらに石垣を積み上げて土を入れ、畑にする作業と、宿泊や工房にする別棟を建設するための資材集めを開始しています。資材の調達が進み次第、第二棟を建てようと考えています。また、一昨年、去年に引き続き今年も4・5・6月に甘夏みかんの販売を(今年は伊豆での資金の足しにするため15Kg入り一箱を送料共4000円で出荷)致します。ご希望の方は、注文の方よろしくお願いします。
『ケア生活くらぶ』の企画に関する「提案します」を、ここに、謹んでお送りいたします。みなさまのご検討をお願いいたします。今年、会員登録が100名に達した段階にでも、『ケア生活くらぶ』の会としての発足の集まりを予定しています。
1992年2月 遠藤 滋・白砂 巌
7、私の新しい連れ合い
私と遠藤滋氏の伊豆の山での農場作りが朝日新聞(1990・12・29)に紹介されたことで連絡をくれた神下孝子さんと、私はそののち個人的に付き合うようになり、1992年6月お互いに新しいパートナーとしての生活を始めた。そして7月、友人による結婚を祝う会がもたれた。
暑い日が続きましたが、いかがお過ごしですか。この度の、わたしたちの結婚を祝う会に出席していただき、ありがとうございました。
わたしどもは8月5日から伊豆に行き、9月いっばい生活していましたが、山での生活は、東京の夜のむし暑さが信じられないくらい、夜は涼しく、掛け布団をかけていても苦にならない程です。その夜の涼しさとは別に、昼は昼で晴れわたりでもしたら、カンカン照りの熱射病になりかねない暑さで、少しは、いろいろ作業をしようという意志も、その暑さでいとも簡単に萎えてしまう始末です。 それでもこの夏は、来た早々、7月時分の松崎の豪雨によって、段々畑のあちこちで小さな土砂崩れがあった形跡ばかりか、新しく土を盛ったところが、2メートル四方、深さ2メートルほどにわたって、雨水に流されて大穴があいており、その部分の修復と、6畳の物置の最後の手直し(ドアなどの取り付け)、畑や道路の一部の草刈り、ミカンの収穫、などをしました。
今年は、4月中旬から山に来ていた時に植えた、じゅがいもは植えた量もそんなに多くはありませんが、7月の梅雨明けの猛暑で、すでに枯れていて出来はそれほど多くなかったが、それでも10Kgほど収穫できました。いんげん豆は種になっていて、一度ゆでて食べたばかりでお終いになってしまいましたが、ミニトマトは今年は、買ってきた苗からも、自分で作った苗からも、去年のこぼれ落ちた種から芽生えた苗からも、今も毎日のように収穫できていて、なかなか成績がよいが、とうもろこしは、今年も成育しきれずほとんど収穫できていない。
去年、種を植えて作ったキャべツの苗が、成育の早いものは6月の下旬に収穫しましたが、この夏、次々巻きはじめ、少しずつ食べれるようになって、食費の足しになっています。だが、キャべツが成育するよりも早く虫が食べてしまうか、それとも人間の口に回ってくるかというところ。
今年は、他に、生姜や里芋の植えつけにも手をのばして、今青々としています。さらに小さな排水用の水たまりを水田にして、下の部落の水田の余った苗をもらって稲を植え、その一部が成育しているだけですが、それでも活き活きと、毎日太陽を浴びています。はたして、どれだけのお米がとれるのでしょう。
山の畑にあるものは他にねぎ、大豆、胡瓜、かぼちゃ(これはまだ収穫に至っていない)、苗を買って植えたなす・ピーマン、苗をもらって植えたあした葉・山わさび・わさび・苺、こぼれ種の青しそ・赤しそ、新菊などがありますが、少しずつ食していました。
山で生活していると、家の中にいる時でも畑に出ている時でも、山道を登り降りする車の音に、道の見えるところまで見に行ったりしています。でも、その車がそのまま通り過ぎてしまうと、なんとなくがっかりしている自分がいます。そしてごく稀に、突然人が尋ねてくると、それだけでなんとなくうきうきもします。そんな自分の姿を、新発見するところが、山での生活にはあるようです。
1992.10 白砂 巌・(神下)孝子
8、1992年の主な作業
2月 伊東の川合農園の一行6人来訪
土木作業
3月 『点検 日本の建造物』調査票の原稿作り
4月 『点検 日本の建造物』調査票の印刷
4月〜5月 ミカン収穫・出荷
8月4日 伊豆へ
9月 かまど作り・台所を板の間に改修。
9、ケア生活くらぶの報告(1992年)
1992年は、4〜6月の甘夏の収穫を軸に、8月5日から9月いっばいを伊豆で台所などの板の間作りや水道の配管・排水などの水廻りを整備する作業をしてきましたが、あっという間の年の瀬です。みなさまいかがお過ごしですか?
個人的なことを言えば、9月末に伊豆から東京に帰ってから、ずっと体調がすぐれず、疲れが抜けなかったこと。また、現在かかわっている袴田事件の再審請求のための無実を明らかにする証拠を発見する調べ「被害者4人の傷には、4つの刃物が使われた痕跡が残されている(これまでは、判決では一つの凶器による単独犯行とされてきた)」を、文章として完成させるべく、分担した作業が重しのようにこの一年の間のしかかっていたものですから、それが終わるまで他のことに気がまわらなかったこと。などで、ついに他のことに取り掛かれずにおわりました。
<< 調査票について >>
1992年の4月に作った「日本の住まいや建築物」にかんする調査票について、みなさまにおくばりしたものの、自分のまわりに対する調査に遠藤滋氏ともども手が出せず、記入してお送りいただいた方からの調査票も、受け取ったままの状態で、ほとんど進展していません。
<< 会員登録・会費納入・基金の拠出状況 >>
会員の登録・・・16人
他賛同人 ・・・24人
会費の納入・・・15人
計 ・・・14.3万円
基金の拠出・・・4人
計 ・・・52万円(内50万円は調査票の作成費用などに使用)
伊豆での諸経費(資材・工具の購入を中心に)現在45万円の赤字
<< 通信(会報)の発行 >>
「ケア生活くらぶ」の方は、会員登録と会費の納入・基金の拠出を開始しましたが、今年は、会として通信を準備できずに終わってしまいましたが、会費については、来年からの繰延べで、活用させてもらうことにして、さて、通信を発行するについては、どんな通信(会報)を発行するのか、ご意見をおよせください。また、会員ならびに、賛同人の方からの寄稿もお願いいたします。
1993年の予定として
「ケア生活くらぶ」の会として
3月に通信(会報)の第一号を出せるようにしたいものです。
7月から 「日本の住まいや建築物」にかんする集中調査・・・
<< 半年の期間の間に >>
伊豆では
1月 かまどの改修と風呂場の建築
2月〜3月 第二次の土地拡張作業
谷に石垣を作りながら盛土をしていく。
4月〜6月 四回目の甘夏の出荷作業
1992.年の瀬に
<< 1993年の始めに >>
お手紙受け取りました。伊豆から東京に来ている間、東京でやれる内にやっておこう・・・ということで動き回っていると、つい中途半端にして伊豆に行くわけにいかなくなり、ずるずると東京に足止めをくっている今日この頃。時には夢にまで、ああしようこうしようと伊豆の作業の段取りをする情景が登場したりする始末。
去年(1992年)の4月以降は、連れ合いの奥さんと二人で行くことになっても、大工仕事などはほとんど一人でやっている状態なので、なかなかはかどりませんが、それでも、少しずつ建て増しや改修を進めています。去年は、5月の連休に遠藤滋氏が介助の若い人たちと来た時に、2日がかりで6畳の物置兼臨時宿泊部屋を造り(後で何回も補修していますが)、9月には、台所の水回りと流しの設置・土間を板の間にする工事をし、今年1月にも続きの作業をしましたが、かまどと風呂については作り直しを考えているところ。
またこの2月15日から伊豆で生活して(3月11日に一旦東京に戻ります)、今回は、第二段階の土地の造成(谷に石垣を積みながら土を入れていく)作業を中心にとりかかる予定でいます。とにかく、まだ、あれもやれない・・・これもやれない・・・・・・ということが多すぎて、甘夏の手入れはほとんどしてない状態。まずは何をするにも土地を広げて、畑などももっと広くできるようにしたいので。
また、今年は、甘夏の販売先を増やして、少しは伊豆の資金の足しにしたいし・・・というところ。
手紙に、「現在の自分を受け入れられない」とありましたので、すこし、書いてみたいと思います。なぜ? と聞きたいのですが、それはさておいて、『だから人間なんだ』を読んでもらえていたら、あの本の中でも書いていたと思いますが、私にしても、かって、ポリオという障害をもった自分を受け入れられずに、はたち過ぎても生きていました。なぜかと言うと、ポリオという障害を負ってしまった〔いのち〕というものは、「悪いもの」とまわりから扱われたり、「自分(人間)が生きていく上でマイナスになっている」とそれとなくそう考える人たちの中で、物心つくころから生活してきたからです。
これは何も障害を負った人間に限ったことではありませんよね、未だに。「マイナス」評価の押しつけの中で、人を発奮させる(ことができる)とでも本当に思っているかどうか別にして、人に対してそう振る舞うだけでなく、実際はその人が自分に対してもそうした関わりをもっているのではないでしょうか。いろんなことで、いろんな場面で。
そうした、態度というものが、どこから出てくるのか、私にしても、あの本をまとめあげる作業をするまでは、わからなかったというのが正直なところ。
どこにいても、どんな状況にあっても、自分が「いのち」のいとなみをもって存在している「自分である」ことに変わりはない。ところが『ああはなりたくない』『ああなったらおしまいだ』という人の思いの中に、自分の「いのち」のありようを何よりも(自分から)否定してしまっている姿がそこにはある。
人(自分)が自分のいのちを「ありのままに肯定して生きる」ことができなければ、他人(ひと)の「いのち」をありのままに受け入れることなんてことは(実際のところ)できっこないわけです。また、自分の「いのち」をとことん生かそうとせず、自分の「いのち」のありようを切って捨てて(生きて)いる人が、自分では気づかないところで、他人(ひと)の「いのち」のありように対してもそうした態度をとってしまっていたとしても何の不思議でもないことです。そうだから、他人(ひと)に対する差別的な態度というものが、その人の気づかないところで生まれてしまうこともあるのです。
そのことに気づくことなく、「生きている」と思っている人が、自分が因って立つ「いのち」そのものをまるごと受け入れて(肯定して)生きていないから、「いのち」のありようの変化をともなう「自分」を受け入れられなくなっている。そうした「生きる」は、何かのきっかけで、肉体の機能障害が生じたり、自分が持っていたはずの何かを失うことによって、もう「生きていない」状況になってしまう。まさに『ああなったらおしまいだ』という、「おしまいのいのち」しか生きていなかったことの現れです。
これまで、多くの人が「生きる」ことを自覚する時、自分の姿や体の健康状態・頭の善し悪し・親から受け取る財産という恩恵の多い少ない・自分の会社やまわりの人たちの自分に対する評価などによって、自分はよりよく生きているか、それとも不運な状況の中で生きているか、ということから、まず自分が「生かされているかどうか」を気にかけ、それなりの評価(経済的な保障を伴う)があって始めて自分は「生きている」と感じていることが多い。しかしそれが、「おしまいのいのち」しか生きていなかったとしたら・・・・・・。そんな「いのち」のうえに自分があるのだとしたら、心ははなっから不安定になってしまうし、体だって不安定になってしまいますよね。
そこで「自分」からは、どこにいてもどんな状況にあっても、自分が「いのち」のいとなみをもって存在している限り、自分の「いのち」をまず生かして生きること。そして、他人(ひと)と「いのち」を生かしあうよう生きていこう。というのが、あの本を作ることによって得た「結論」でした。
そうした「いのち」を生かしあう関係を、他人(ひと)との間にも、自然との関係においても実現していこう、というのが、わたしの今のモットーとなりました。その表現のひとつが「ケア生活くらぷ」という仲間づくりでもあるのです。この先わたし(たち)にどこまでできるか、などということはわかりませんし、またわからなくてもよいことです。もちろん、少ない人の輪でできることでもありません。だけど、とにかく「いのち」を生かして生きて行くだけです。そして、こうした意欲を持った人の生活空間として「ケアを前提にした共同住宅」をつくりたいし、後に続く、障害をもって生きる人に手渡していきたい、とも思っています。
そんな中、わたしにとっての「伊豆」は、何よりもまず、わたしがやりたいことをやっていく場でもあります。だから、やることに際限がなくても、わたしが目にした、やりたいことをやっていくという姿勢を崩さずにやっています。だから、これまでも、あまり「ひと」に応援を求めずにきました。わたしがこんな風ですから、他の「ひと」も、自分のやりたいことをやりに伊豆には来てほしいと願っています。
1993・2・13 白砂 巌
<< 甘夏を発送する時に入れた手紙 >>
ご無沙汰しています。お元気ですか?去年の甘夏はいかがでしたか?去年は、伊豆の4月は雨降りが多かったので、一部の人には、発送が遅れたことや、すっばいみかんが届いた人がいたりと、ご不満をおかけしましたが、今年の甘夏は、去年より成育も良く、味の方もよいようです。
今年は、2月15日から伊豆に来ていて、3月6日に東京へ一旦戻るつもりで作業していましたが、帰京寸前の3月5日、電動の丸のこで作業中、右のふとももを自分で切断してしまい、急遽、西伊豆の病院に行き手当てを受けたものの、13針縫う、筋肉の切断を伴う怪我のため、12日間入院をすることになってしまいました。その後も、退院してから、生活の不便さを考慮して、東京へ帰るのをやめ伊豆の山で生活を続け、甘夏の収穫期に入ってしまい、みなさまから電話でみかんの注文を受けられなくなってしまいました。
幸い、怪我が深手の割りには、傷の方は順調に直り、切断した筋肉の機能も、ほぼ元通りにくっついてくれました。一ヶ月のブランクとなってしまいましたが、4月からあわただしく、みかんの収穫に入ることができました。ところが、みなさまに、電話で問い合わせもままならないので、かってながら、今年も甘夏を送らせていただきます。ご賞味のうえ、よろしくお取り計らいください。
今年は3月に通信をと、計画していましたが、怪我の最中も山でじっとしていることができず、通信を編集するどころでなくなってしまいました。そして、4月に入ってのこの一ヶ月、葉書で注文をいただいた方に、せっせとミカンを送ってまいりましたが、連休に突入の最中、少しだけ時間の余裕ができたので、通信の代わりに、この手紙をまとめはじめました。
1993・5
<< 1993年の主な作業 >>
1月 台所に続く三畳(サンルームと呼んでいる)の棚作り
サンルームと台所の屋根(トタン)の張り替え
2月21日 夜半からの豪雨で埋め立てた盛土が流され大穴が開く
2月下旬 プレハブ裏のかまどを囲い・屋根を取り付ける
3月 谷のみかんの木を切る。足を切って入院
4月〜6月 甘夏の収穫・出荷
7月5日 豪雨で入口の山の崖が崩れ入口がふさがる。
大田区の高校生一行20人が農場で研修キャンプ
8月 10m下の谷に第二段階の石垣作りに取りかかる
8月24日〜9月8日 (夫婦で北海道旅行)
10月・11月 袴田事件の再審請求に関する文章書き
11月 谷の第二段階の石垣作り
12月20日 岡山の農園に注文した果樹(農場の果樹参照)伊豆の農場に届く。仮植え。
お風呂の設置・囲い・屋根作り
1993年1月に予定していたかまどの改修には取りかかれず、その後、3月頃に拾ったプロパン用コンロで以前拾ったプロパンガスボンべの残っていたプロパンを使うことがキッカケとなって、台所の煮たきにもっばらプロパンを使うようになったため、この年のかまどの改修は手つかずに終わり、風呂場ものびのびになった。
風呂が設置できたのは、1993年12月になってからで、これまで、伊豆に滞在している折は、冬の一時期を除いて毎日のように通っていた、石部の露天風呂の温泉の温度が極端にさがり、冬の気象条件のもと、とても入っていられなくなってしまい、しかもこの温度の低下傾向が長引きそうだったため、お風呂を設置した。
それも、もともとはガス釜として使っていたものを、風呂の焚き口の底に穴を開け、薪の火を送り込んでやるという方法でお湯を沸かしている。始めは燃えすぎてかえって熱効率がよくなかったが、改良を重ね、薪の燃やし口に蓋をすることで熱効率があがって、快適なお湯が楽しめるようになった。
また、第二次の土地拡張作業の内、谷に石垣を積み上げる作業にとりかかれたのは、8月になってからのことであった。崖の上から谷に落とした石(中には3トン近い石もある)を、大きい石はバックフォーをつかって一つ一つ積み上げ、手で持てる小さな石は自分で持ち上げて積んでいる。
その後の何回かの作業で、いまや石垣は、長さ11.4m×高さ50cm〜1.5m×巾(奥行き)1.2〜1.3mの大きさになった。
<< どんないのちも生かして生きる人の
ネットワークとは >>
白砂 巌
1、介助を通した人のネットワーク
これまで、私たちは、さまざまな問題が起きると、その責任の所在を、社会(政治や行政)のせいにして、その問題に対して、自分たちの共通の責任で何とか対処しようという気持ちを持った社会的行動をして来ませんでした。個人的な行動・個別グループ的な行動は別にして、残念ながら未だに「誰かがやればよいことだ」と、やり過ごしているのが私たちの現実です。
こうした状況の中で確実に、代わるがわる誰かのところへ同じような難問が降りかかっているのが現実です。
例えば、年老いて動けなくなる親の生活を介助することがいい例です。このことが、よく「介助」が集中する担い手の女性の問題として取り上げられたりもしています。ところが現実には、その「介助」がいつか必要なくなることがあるため、それぞれの家族にとっては一過性のこととされてしまうようです。
その上、障害者の生活介助と同様、あくまでも家族内の問題とされ、社会的には、誰かがどこかで同じ目に遇うことがあっても、一人の経験が生かされ、他の人に伝えられ同じ轍を踏まなくてもよくするのでなく、相変わらず同じ轍を踏むという堂々巡りが繰り返され、これを変えようとする手だては示されていません。
こうした社会の土壌が、障害者の生活の介助を社会的に支えていこうという、意識の広がりを狭めている要因にもなっていると、私は考えています。
人が生きていく途上で、何かの事故などに遭遇し、その結果寝たきりになったりして、その人の生活に介助が必要となった時、その「介助」を、家族だけの問題とするのではなく、障害者の生活介助と同じように、自分が地域や社会の仲間として、その仲間の一員のことと受け止めて、ひと(他人)がどんな状況におかれても、気持ち良く生き抜けるような環境を共通の課題として作りだすことが必要です。そのことなしに、どんな人のいのちも切り捨てることなく生きる社会を、私たちが作りだすことにつながりません。
しかし、『人のこと(いのち)などにかまっておれない(かまわなくていいんだ)』というのであればもう何もいいません。けれど人のこと(いのち)などかまわなくていいんだという人の意識は、もう一方で、『人のこと(いのち)など知ったことか』という自暴自棄を生みだしている現実があります。
だから、『人のこと(いのち)などにかまわなくていいんだ』という人は、『人のこと(いのち)など知ったことか』という自暴自棄を生む人の意識の社会的土壌もこれからも大切にすればよいだけでしょう。そして、その自暴自棄がはじけて、殺人などの事件が起きた時、死刑という国家の名による私刑にすることで気が済むのなら、「死刑制度」を温存すればよいだけです。
2、死んでもいい「いのち」はあるのか
『死んでもいい「いのち」はない』という対局にあるのが、殺人を侵してしまう人の心理と死刑にすれば気が済む人の心だと思います。両者とも、『死んでもいい「いのち」がある』と思っていることにかわりはないからです。
人が『人のこと(いのち)など知ったことか』という自暴自棄と「死刑制度」を温存すれば気が済んでしまう意識に止まっているのであれば、『人のこと(いのち)などにかまわなくていいんだ』、『人のこと(いのち)など知ったことか』という中に、死んでもいい「いのち」が人の心の中にあり続ける堂々巡りから、私たちは、いつまでたっても抜け出すことはできません。
ところが日本では、犯罪の抑止力に「死刑制度」は必要だ、という意見があります。しかし、「死刑制度」を続けている現在も、残念ながら殺人事件は減少するどころか、最近はちょっとした、いさかいがもとで殺人に至るケースも少なくなく、相も変わらず殺人事件は繰り返し発生しています。日本でも、「死刑制度」の存在が、殺人という犯罪を抑止する効果を上げている、とはとてもいえません。
また一度犯罪に手を出した人の再犯率も多いといいます。だが、このことは、犯罪の抑止と更生のためにあるはずの刑務所が、犯罪の抑止と更生という本来の役割を果すことに失敗している現実をさらけ出しているだけです。しかし、そうは言っても、私たちも自分たちの責任において、そうした人を改めて仲間として迎え入れ、共に生きることに成功しているわけではありません。
けれど、人が『他人(ひと)なら死んでもいいんだ。他人(ひと)を殺してしまうことになってもしょうがないんだ。殺してしまおう』と思う前に、その人に、自分の「いのち」も他人(ひと)の「いのち」も生かしあって生きる気持ちを少しでも持ってほしいと思うなら、どこかで、この堂々巡りの鎖は、私たちが自分から、自分で断ち切らなければどうにもなりません。
とくに、殺人事件などでは、被害者遺族は犯人を殺してやりたいと思い、その代わりを国が裁判という形態をとってはいるものの、犯人を殺すというのが「死刑制度」です。しかし、殺されてもいい「いのち(被害者)」などいないということを貫くのだったら、例え被害者遺族であっても、犯人の「いのち」に対してもそれは貫くしかありません。
そして私たちも、どんな「いのち」も生かしあって生きようということを、殺人を犯してしまった人に対しても貫くのでなければ、殺されてもいい「いのち」、死んでもいい「いのち」などない、ということ私たちが貫いたことにならないからです。しかも私たちは他人(ひと)のいのちを奪ってしまった人に対しても『どんな「いのち」も生かしあって生きよう』というメッセージを、どんな時でも送り続けられる関係を確保しておくべきです。
これは、国や社会の関係においても同様のことが言えます。私たちが、日本において、どんな「いのち」も生かしあって生きようという社会を実現するのでなければ、現状のままこれまで通りにやればいいだけです。けれど『どんな「いのち」も生かしあって生きよう』という社会を私たちが実現していくのであれば、国や社会の名においても、どんな理由であっても『死んでもいい「いのち」』を一つたりとも作り出さないことだ。
私は『死んでもいい「いのち」はない』ことを貫いていない「死刑制度」を廃止することを含め、これまでの日本のすべてのシステムについて、再検討し、改革する必要があると考えています。
「死刑制度」の存続を問う映画『免田栄 獄中の生』が去年制作され、映会が催されています。免田栄さんの映画を上映する会に問い合わせると上映会の開催予定など教えてくれます。
<< 「ケア生活くらぶ」の農場「いのちの社」のご案内 >>
住所 〒410−36 静岡県松崎町八木山3281(岩科南側3281)
@電車の場合
i 伊豆急・下田駅まで行き
バスで下田〜松崎松崎〜八木山橋へ
ii 東海道線の沼津まで出て
船で沼津港〜松崎(約1時間20分)まで行きバスで八木山橋へ
iii 東海道線の三島〜修善寺まで電車に乗り継ぎ
修善寺から松崎行きのバスにのってさらに八木山橋へ
バスに乗る場合、八木山橋まで通しでも切符を買うことができます。
A自動車の場合
東京から
i 東名高速道路〜東名裾野・沼津から
136号線を走って・修善寺・土肥・松崎と西海岸コース 松崎まで約21Ok
ii 246(厚木)〜平塚(西湘バイパス)〜早川〜箱根新道〜三島へ出て
136号線を走って・修善寺・土肥・松崎と西海岸コース 松崎まで205k
iii 246(厚木)〜平塚(西湘バイパス)〜早川
伊豆の東海岸を下田回りで松崎に出る 松崎まで約220k
<< 松崎から >>
■下田〜松崎の幹線道路の一本南の道〔松崎〜蛇石〕を東に向かう。
道路の分岐点は、松崎からマーガレットラインに向かう道との三又路(時計台あり)を左(東)に向かう。しばらく走ると〔蛇石〕の看板あり。
松崎町の分岐点から5.5kほど走ると、八木山という部落に出ます。
八木山橋を越えないところ(左手手前)に〔下川商店〕あり。確かめたくなったらそこのおばさんに「白砂さんのミカン山はどっちですか?」とでも聞いてください。
まだ、農場『いのちの杜』で知られていません。
さらにここから2キロ山に入るのですが、
■橋の手前を右にまがって細い道を行き、次の橋の手前を右にまがっても山へ入っていってもよし、
■橋を渡って坂を登ってしばらく行くと、部落の外れを右に入ってすぐに橋をわたる道があるので、そこから入って、次の橋を渡って、山にぶっかったところで左に山へ入っていってもよい。
■山へ入ってからは、「オレンジの里」ないし「中井」さんの看板も目安にして右へ右へコースをとって、舗装された道だけを走ってください。舗装されていない道が右手にあっても入ってはいけません。川口農園というミカン山の上隣が目的の場所です。
おつかれさまでした。
記 白砂巌
<< ケア生活くらぶの農場『いのちの杜』の甘夏を
今年もいかがですか? >>
わたしたちが、伊豆の松崎町に2880坪の土地を確保して、はや4年。今年で甘夏みかんの収穫も5回目となります。
わたしたちは、都会に「ケアを前提に生活しあう『共同住宅』を造る」ことをテーマに、会として会員の募集をはじめるとともに、伊豆の農場は、車いすで生活している人も気楽に遊びにこれる空間として、工房〔焼物・木工・染物など〕や農場〔畑・果樹・動物の飼育〕や生活・宿泊棟を作り、必要に応じて図書室やリサイクル室などを設け、ケア生活くらぶの会員とその家族で活用するため動きはじめました。
わたしたちが確保した土地は現在甘夏のみかん山で、この甘夏を今年も4月中頃から6月中旬にかけて販売(産地直送=15kg箱入を送料共4O00円)いたします。また、甘夏のみかん狩りも楽しめます。甘夏は無農薬栽培ですから、安心してマーマレードなども作って楽しめます。
作り方・皮は白い部分もそのままに千切りにして1〜2度ゆでこぼす。
実は袋をむき、ゆでこぼした皮と実を一緒にして砂糖で煮詰めてもジャムになります。ぜひご賞味ください。
甘夏15kg入 送料共4000円 箱は15kg入ですが実質17kg前後入また甘夏の他に、干し椎茸。竹の子入りなどを希望することもできます。
干し椎茸 100g 400円増
竹の子 1本 400円増
但し、竹の子は季節のものですから5月初旬頃までです。なお竹の子入りを希望する方には、竹の子の成長にあわせた時期にお送りします。
1994.1
甘夏のお申し込みは、同封の葉書かお電話で
<< 『ケア生活くらぶ』に会員になるには >>
1994.1改定
A.会員は、会費(通信事務費、会報の発行費用など)として年3000円と共済費(当面3年毎)1000円を負担する。
1.会費の納入は、当面年会費3年分と共済費をまとめて10,000円を納めるものとする。以降も会員は事務処理を軽減するため3年分の会費と共済費を納入するものとする。
2.共済費は、会員の共済基金として積立、活用する。
B.会員は、農場『いのちの杜』や『ケア生活館』建設資金として基金を拠出する。
1.会員は、農場『いのちの杜』の拡充と『ケア生活館』建設資金の基金として一口24万円を拠出する。(一口以上何口でもよい)相談によって、基金の拠出は猶予できるものとする。
2.学生については、将来、収入を得るようになった時点で基金を拠出してもよい。
3.基金の拠出は、本人の可能な方法(分割も可)で決定、実行するものとする。
4.拠出された基金は、農場の建設費にその一部を当てるほか、財団法人の設立にあたって、その基金とする。
5.基金の拠出に基づく権利は、相続の対象としない。が、夫婦間において、その権利は引き継がれるものとする。
6.親から独立した子供は、はたち過ぎたら自らの意志によって、新たに会員の登録をするものとする。
7.『ケア生活くらぶ』から退会を希望する会員は、拠出した基金の返還を次の計算式に基づいて求めることができる。
〔24−会員として在籍した年数〕×1万円×出資数。ただし、24年以上会員として在籍した場合は、基金の返還を求める権利を失う。
C.会員は、農場『いのちの杜』の宿泊施設を利用する時、農場の運営費を負担する。基金会員とその家族は一人一日あたり600円。ただし独立している兄弟家族については会員外扱いとする。一般会員1600円。会員外3000円。ただし、小学生〜高校生は半額、学齢期までは無料とする。また、障害者とそのグループついては、会員の同伴があれば会員に準ずる扱いをする。なお、この運営費には食費は―切含まないものとする。
1991・8現在