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親鸞について、もう一言

 20年間修行をかさねてきた比叡山を捨てて、かれは京都東山のふもと、吉水に草庵を結んでいた法然のもとを訪ね、それから念仏の道を歩み始めます。29歳になった、建仁元年にあたる年、すなわち1201年の初めのことでした。
 といっても、まっすぐ法然の所へ行ったわけではない。六角堂に100日を限ってこもり、その95日目の暁(あかつき)に受けた夢のお告げがきっかけとなって、法然の門をたたいたということになるらしいのです。その、夢のお告げ…。
 一般に解釈されているように、「法然のもとへ行け」と言われたわけではなかった。
 「わたしが女人(にょにん)の身となって、あなたに抱かれてあげよう」 …そう、観音菩薩が現れて、告げたというのです。

 行者宿報設女犯 仏道を歩む者が、たとえのがれられない定めによって女性と交わろうとも
 我成玉女身被犯 わたしがそのひとの身となってあなたに抱かれよう
 一生之間能荘厳 一生の間よく添いとげて
 臨終引導生極楽 いのちを終えるとき必ず極楽に導いてあげよう

 このことは、後に親鸞の妻となった慧信尼が、孫娘に送った手紙の中にも書かれています。
 当時、出家して仏道修行する者には、女性とのふれあいは許されていませんでした。少なくともたてまえの上では。それがかならず現世への執着となって、さとりへの道の妨げになるとされていたからです。
 親鸞、すなわち当時の範宴(はんねん)も、このことにはかなり深刻に悩んだにちがいない。もちろん、ひそかに京の街に妻を持ったり、あやしい場所に出入りしたりする者も、この時代の比叡山にはあたりまえのようにいたでしょう。なにせ、性への欲求はひとであるかぎり極めて断ちがたい、どうすることもできない欲求なのだから…。それが、山でも一般の僧たちの間で、暗黙の了解事項になっていたかもしれない。
 ところが、親鸞にはそれが許せなかった。あくまでも仏道の本意に忠実に、しっかりとした答えが得たかった。「地獄は一定(いちじょう)」という絶望の自己認識も、そこからでてきたのです。
 おそらく親鸞には、だれか具体的に、想うひとがいたのでしょう。それにまつわる伝説も、たしかにあります。それが関白・九条兼実の息女、「玉日(たまひ)姫」でなかったとしても。
 比叡山を捨てたとき、かれはすでに法然(源空・『選択本願念仏集』等の著者)の名を知っていたはずです。もちろん、それ以前の高名な念仏者である、『往生要集』の著者、源信をも。浄土三部経といわれる3つの経典にも、当然触れていたでしょう。
 答えはすでにでていたのです。1201年の1月早々、山を下りて六角堂に百日ごもりをしたのは、最後の土壇場で、そのことだけが引っかかっていたのかもしれない。
 法然というひとの一押しが、かれにとってはどうしても必要なことだったのでしょう。ぼくには、そう思えてなりません。

1999年02月20日