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“はだかのままの自分のいのち”

 “自らのありのままのいのち”、“自分のいのちそのもの”、など、これまでぼくはいろいろに表現を変えて、ひとつの事実を伝えようとしてきました。そこからでないと、ひととひととが本当にいかしあう関係は、けっして創り出しえない、と思うからです。
 ぼくに言わせれば、それはみんながこれまでの社会の枠組みの中で、必死である役割を演じているか、または一生懸命演じようとしていて、それに気づいていないからというだけのことなのです。演じている役割の方を自分だと思いこんでしまっている。
 ここ何年か、「自分さがし」などという言葉がはやったのも、たとえばバブルの崩壊などという形でその社会の枠組みがまたたくまに揺らいできてしまった今、それまで描いてきた自分というものの姿が、きわめてウソ臭く思えてきたからかもしれません。
 ぼく自身についていえば、やはり自分のいのちに刻まれた障害というものを、なかなか受け入れることができなかったのです。ねじれたり曲がったりした身体、思うままに動かない手足・・・。それらが本当はぼくのかけがえのないいのちの姿、いや、いのちそのものだったにもかかわらず、心はそれを受けつけず、別のところに自分をたてようと、あせっていました。何か別のものを演じようと必死だったのです。
 ある時、ぼくはそういうぼく自身の心が、実は親やまわりの大人たちによってつくられた思いこみにすぎないのだということに気がつき始めます。つまり、世の中を形づくるためのある役割を果たせないと、ひととはいえない、という観念です。しかも“競いあい”の中で。それならその世の中を変えればいいのだ、という安易な方向に、その時ぼくは向かってしまう。でも、それはかなり見当外れの、無理の多い努力でした。そのことに気づいたのは、その間に障害を持ついろんなひとと出会ったあげく、偶然あるひとと再会したのがきっかけでした。
 思いこみなら、まず自分がそれを捨て去ればいい。・・・今、多くのひとの手を借りて、ひとつのいのちとして欠かせない営みを繰り返しながら、そのままで“いかしあう”新しい人間関係(社会関係)を創り出す要でありうる自分を、あらためてかみしめています。

1998年01月15日