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逃げるひとびと

 さびしいひとが増えている。いや、なお増えつづけている…。いま起こっている多くの様々な新しい問題が、そこから発しているようにも思えます。

 かつて、日本の農村には、地域ごとに「村落共同体」とでもいうべき組織があり、一定の秩序のもとに、ともに生活を営み、農作業をもたがいに援助しあうような関係が機能していました。およそ500〜600年ぐらいまえに“惣”として成立し、さほどかたちをかえずに、つい40年ほど前までは確実に残っていたのです。
 それが、1960年代にはじまる高度経済成長で、工業化・都市化の波に地方都市や農村までもが洗われ、きわめて短期間の間に解体されていった…。

 もちろん、すでにそれは約350年ほど前、つまり徳川幕藩体制が築かれるまでの間に、再び封建的な社会の枠組みの中に組み込まれていたし、むしろ明治以降、日本の近代化のためにかえってそれが利用されていたふしもあって、むらの“掟(おきて)”や“しきたり”は、ひとびとにとってはとてもうるさく、煩わしいものになっていたのです。とくに戦後ともなればなおさら…。アメリカ式の個人主義が、ごく自然に入ってきたからです。
 そこに都市化が火をつけた。個人の自由を求めて東京などの大都市にひとびとが集まるようになっただけでなく、農村をも疑似都会化してしまった。そしてその対極に現れたのが、ほとんど高齢者しか残っていない、いわゆる過疎地帯だったのです。

 そろそろその時代に育ったひとたちに、かわいい孫が生まれてくるころ。にもかかわらず、いまだに日本の多くのひとびとは、「煩わしい」人間関係から逃げようとする姿勢を捨てきれないでいるように思えます。おとな達がそうなのだから、たとえ子供達に「引きこもり」の傾向が現れてきたとしても、不思議でもなんでもないではないですか。
 でも、このあたりが潮時。欧米の近代社会では、個人と個人のあいだの契約関係が、市民社会の原理になったようです。しかし、日本には、事実としてこの原理はなじまない。
 このあたりで、これまでなかったような新しい人間関係を、この日本でみずから積極的にさぐり当ててみませんか?

 古いかたちの共同社会は、もうない。それに代わる「関係論」がいま、必要なのです。そしてそれは、その地域だけにしか通用しない、いわば閉ざされた習慣などではなく、どんなひとにも開かれたものである必要があるのです。
 他人と関わるのは、たしかに難しい。なにせ、ひとりひとり生い立ちがちがうのだから…。まして国が違えば、それはなおさらでしょう?
 ひとの豊かさは、けっして自分ひとりが気ままに使うことのできる金の額の大きさによって保証されるものではない、とぼくは思う。
 それは、自分が持っている、さまざまな人間関係の豊かさです。ひとは、いつ、どこでどういう他人の助けが必要になるか、分かりません。困った時だけではなく、創造的な何かを思いついたときにも、その実現のために、なおさら…。だからこそ、結局は自分のいのちをはだかにしておく必要があるのです。そうしてしまえば、あとはとても自由です。
 誰がなんといっても、これは事実としかいいようがありません。
 ぼくらとともに、お互いのいのちをいかしあう人間関係の輪に、いろんな立場で加わってみませんか? ぜひお待ちしています。
2000年11月12日