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「731」部隊と戦後日本の障害者医療

 2000年8月15日。日本は55回目の終戦記念日を迎えました。

 ところで、みなさんは旧日本軍の「731部隊」をご存じですか? そして、それがなにをしていたか、ということも…。

 ぼくが生まれたのは、1947年。戦争が終わってから、たった2年後です。
 1歳のころ、両親がぼくのからだのわずかな異変に気づいて、町医者をはじめ、いくつかの病院をまわったあげく、やっとある専門医に脳性マヒと診断されたわけです。

 ぼくにとっては、それからが地獄だった。「気脳術」だとか、「パンピング」だとかいう、本人にとってはとても苦しい治療法が、実験的に行われたのです。
 日曜日になると、医者が来る。両親に押さえつけられて、ちょうどヘソの裏側あたりのところから、腰椎の間に注射針をさし込まれ、脊髄液を出し入れされる。その晩から、激しい頭痛と吐き気に見舞われ、それが約2日間続きます。そのあと、妙に緊張がゆるんで、確かに1日2日は手足が多少は動くようになるのですが、それを過ぎると、まだもとの状態に戻ってしまう。そしてその時には、すでに翌日か、あるいは翌々日には、またその医者が来る頃になっているのです。

 まだ幼児だったぼくには、死ぬほどに恐ろしい体験だったのですが…。

 あとになって聞いてみると、おなじ世代の同じような障害をもったひとたちの多くが、同じような体験をしているらしいのです。そしてこの治療法は、あまりにも危険だということで、数年後には結局中止されたそうです。しかしその後も障害者を実験材料にした医学研究は続き、精神疾患の治療法のひとつとして試みられた「ロボトミ」といわれる脳の手術が、脳性マヒによる障害者にも行われました。そしてこれも、患者をただ無気力な、なんの意欲もない人格に変えてしまうだけだ、ということが判明して問題になり、すぐにやめになりました。

 医者たちに対する、患者である障害者、特に脳性マヒによる障害者たちの不信感が、最も先鋭化して表れたのが、例の「府中療育センター」問題だったのではないでしょうか? もちろん、これは「わが子の障害を何とかしたい」という、親たちの願いと意識が背景として働いていたからこそ、ありえたことです。ともあれ、脳性マヒ者の非常に多くは、このころ、すっかり医者ばなれしていました。その頃からの症例の蓄積が医者側になかったとしても、それは当然でしょう。
 このことは、機能訓練についてもいえます。当時のそれは、「動かないんだったら動かせ」、「動かないのは、おまえの精神がたるんでいるからだ」式のものでした。身体に無理なことばかり。

 そうしたことと、例の「731部隊」との関連にぼくが思いいたったのは、ごく最近のことです。日本の侵略戦争のさなか、中国人をはじめとする捕虜たちを「丸太」「丸太」と言いながら、人体実験を繰り返していた部隊。終戦後、本来裁かれるべき存在だったのに、実験データをアメリカに渡すという密約のもと、それと引きかえに罪を問われたり、自分たちがやったことの可否を検証することもなく、戦後日本の医学界の指導者として君臨することになった医者たち…。

 これまでそれに気づかなかったのは、たまたまぼくが生まれたのが、いまの「民主」憲法が施行された年で、それ以前の戦争の時代とはとても連続しては考えられなかったのと、あとは、おとなに比べて子供の時ほど、時間のたつのがとても遅かったせいなのかもしれません。

 考えてみれば、ぼくが例の治療をうけたのが3歳だったとして、それは終戦から、たった5年しか経っていない時期だったのです。いったん徹底して身につけてしまった大人の意識や感覚が、10年や20年で、そう簡単にかわるはずもない。そう思ってみたら、にわかにふつふつと疑問が沸き起こってきたのです。医者だけでなく、当時の大人たち一般に、それがいえる。

 脳性マヒに続発する、変形性頸椎症。そのことが結果する「ことの重大さ」に、医者たちは、ほとんど気づいていませんでした。わかっていれば、それなりのアドバイスはできたはずなのに。医者に信頼をおくことができていれば、もっと早く相談ができ、対策が打てただろうに…。
 頸椎の変形による神経管狭窄が問題になりはじめて、まだ10年も経っていません。「731部隊」の体質が、そのまま国内の患者に対する感覚として、残っていた結果だとは思いませんか?
2000年08月15日