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民が民のまま主(あるじ)であること

 言葉から論を始めることをぼくは好みませんが、今回はあえてそれを試みることにします。

 「民主」という言葉があります。いまでは多少手垢のついた感じのする言葉ですが、この言葉の対語は、言うまでもなく「君主」。専制君主制、などという言葉もあります。
 近代は、その「君主」制社会に対して、民が主であろうとする動きに始まりました。

 ところで、ご存じでしょうか? 「民」という漢字、奴隷がその目をつつかれている姿を表した象形文字に始まっているのです。古代中国のある地方で、戦争の結果、敗者の多くが奴隷になる。その奴隷が逃げたり、反逆を起こしたりしないように、わざわざ目をついたのです。いわばわざわざ"障害"者を作ったわけです。
 ここまでくると、にわかにぼくの"守備"範囲に入ってきます。いちいち書いてはいられませんが、"障害"をもつことと、一方的に支配される側にたつということとの関係を物語るひとつの歴史的な事実として、きわめて興味深い話ではあります。

 それはともかく、「民主」とは、「民」が民のままで主(あるじ)であることを意味します。民百姓でも、苦労を重ねて立身出世すれば、「今太閤」などといわれた誰かさんのように、一国の総理大臣(とにかく偉い人)にもなれる、ということではありません。
 そういう意味では、福沢諭吉の『学問ノススメ』が、せっかく人間の平等を説きながら、いまだに間違った影響を世にふりまく結果になっている、ともいえるでしょう。
 万人平等、という言葉のもとにひとを横並びにし、ひとつの価値観で優劣をつける。学問に精進した者が指導的な立場に立ち、そうでなくとも、せめて読み書き、算術ぐらいはできれば…、というような捉え方では、たとえば「富国強兵」等というようなスローガンのもとに粒揃いの労働者や兵隊は養成できても、ひとりひとり違った条件のもとに生まれた自分を、そのまま創造的な存在としてみずから生かす、といった豊かな個性は養成できません。

 現在どんな状況にあろうと、「民」のひとりとして生きている自分は、自分自身の社会的なありかたに責任をもつ…。いま、ぼくは自らそう決めて生きているのですが、それが、民主社会に生きて、それを支える個人にもとめられる、最も基本的なことがらなのではないでしょうか? そしてそれは、難しそうにみえて、実はとても簡単なことなのです。
 自分自身を受けいれ、その具体的なあり方をしっかり決めた上で、あとは自らの責任でひととの接点をさがす。そしてそれが見つかったら、それらをひとつひとつ大切にいかしてゆけばいいだけのことです。そうした輪を、気取らないところでどんどん広げてゆけばいい。

 ひととひととのネットワークを積極的にかたちづくること。それも、お互いのありのままのいのちを直接にいかしあうかたちで…。社会は、自分でつくってゆけるものなのです。
 "いのち"の深みで、それをひとつひとつ実現させていったら、必ず今までになかった新しい世界が、そこに見えてくるはずです。もしそれが本当なら、あなたは?
2000年07月20日