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“性”についての狭い観念を捨てて

 前回にひきつづいて、あの、「のっぴきならない話」です。

 でも、いったいマスターベーションの介助なんて、本当にありうるのでしょうか? そもそも、他人を介さず、ひとりで勝手に楽しむのが、それがそれである利点なのではないでしょうか? しかし、いまのぼくのようなものにとって、それは不可能です。
 マスターベーション(オナニー)の介助だって、あっていいではないか。

 しかし、そう簡単にはゆきません。なぜって、それはどうしてもだれか他人の関わりを必要とするからです。これはひとつの論理矛盾? でも、それが事実である以上、介助するそのひとはどういう立場で、どうしたらいいのかを考えざるをえない。べつに、セックスそのものをやらせろよ、といっているわけではないのだから、ほんとうはどうということもないのです。でも、ひとによっては、どうもそれだけではすまないらしい。
 かりに、同性のひとに、それをたのむとします。どちらかが同性ごのみなら別ですが、たいていはなにか性的な興奮をあおる媒体が必要でしょう。たとえば、エロ本とか、エロビデオとか…。これはあまりいただける図ではない。

 異性だったらどうでしょうか…? ぼくには、このほうがずっと自然に思えます。
 はじめは、たしかに恥ずかしいでしょう。それは、わかります。でも、こちらは自分のあるがままのいのちの姿を、裸でそのひとの前にさらすことにもなるのです。それを覚悟のうえでないと、こういうことはなかなか言いだせません。
 でも、なんとなくフワーッとした感じで、ことさらな刺激がなくても、なんとかなりそうです。できればそれに、多少の好意と、いたずらごころが加われば、文句なしです。なにもぼく自身が「最愛のひと」でなくてもいいのです。
 でも、これはたしかにかなりスリリングな話ですね。だからこそ、おもしろい…。そこにとどまれば、あくまでも一方的な関係。それで終わっても、十分なのです。

 わりきって、ただ合理的に肉体的な欲求だけを処理するシステムをつくれば、それでいい、と考えるなら、アメリカの多くの病院で、清拭のさい、看護婦の仕事の一部としてそれがあたりまえのように位置づけられていたり、また、オランダにそれを目的としたボランティアグループがあって、軽い気持ちで誰もがそれに関わることができ、そうした活動に公的な支援があったりするなど、様々な試みに、それぞれ学んでヒントを得てもいい。
 たんに、風俗営業店のお世話になればいいだけじゃないか、という声も聞こえてきそうです。でも、ね…?

 こういった話をすると、必ず「遠藤さんにも、彼女がいればいいのにね」という言葉がかえってきます。しかし、だれしも同じで、そんなにご都合よくゆくわけはありません。まして、おもい障害をもっていればいるほど、恋愛とか、性の対象には、すくなくとも一般的にはなりにくいのです。もし、あなただったら、どうですか?

 もちろん、ぼくはいまだに「最愛のひと」をつくることを、諦めているわけではありません。でも、そんなにご都合よくゆく話ではないからこそ、考えるのです。それがかえって、性や、その行為そのものに対する狭い固定観念をこえ、もっと自由にものごとを考えるきっかけになるかもしれない、とも思うからです。
 あらゆる観念にとらわれない! そうきめて、ぼくは生きています。
2000年06月20日