TOP
トピックス

遠藤 滋
結・えんとこ
えんとこ
ケア生活くらぶ

連載情報
 ┣ 遠藤滋一言集
 ┣ にわか歌詠み
 ┣ 調査結果報告
 ┣ えんとこ通信
 ┣ いのちの森通信
 ┗ 梅ヶ丘周辺マップ

障害者自立支援法
施行問題
支援費制度問題
映画『えんとこ』


掲 示 板
アンケート
スタッフ募集!!
リンク集
更新履歴

  第38号
1996年1月10日発行

とてちてたちゃん

      中間陽子
とてちてたちゃん
てとてとあるく
とてちてたちゃん
とてっところぶ
とてちてたちゃん
たてちてととと
ないしょばなしも
たてちてととと

推薦ヘルパー制度をどう使うか

遠藤滋

 昨年11月28日の世田谷区との交渉で、推薦へルパー制度を今年2月から新しく導入するという回答がありました。
 現行のへルパー制度のもとで、ぼくは区の福祉事務所から来る公務員のへルパーを週3回、区に委託された家政婦紹介所からの登録ヘルパーを週2回、派遣されています。原則として、どちらも一回が3時間までとなっています。
 このままでも、登録ヘルパーの方は、4月以降2回程度は増える可能性が十分にあります。が、この登録へルパーをぼくが推薦した任意の人にすることが認められるようになるのです。それだけでなく、公務員のヘルパーまですべて辞退して、自分が推薦した人に替えることもできるようになります。
 選択肢は広がったのですが、これについて、ぼくははたと困ってしまいました。なぜかというと、これをこれまでの介助料のように、介助者の何人かを推薦登録して、事実上介助者グループ全体の介助料に加えて使うことも可能だからです。むしろぼくはそれを望んでいて、せめてアルバイト料程度は出せるようになれば、と思っていただけに、現時点ではとても迷ってしまうのです。
 いくつかの選択肢をあげてみます。

1、現在のまま、公務員へルパーと登録へルパーの並行派遣を受ける
2、公務員ヘルパーの派遣だけを受け、ほかをすベて推薦登録にして運用する
3、公務員ヘルパーの派遣も辞退し、全部推薦登録とする
   イ)全体の介助料に還元し、これまでの介助料を底上げする
   ロ)推薦ヘルパー制を文字どおり使い、1・2名の専従介助者を作る

 それぞれの場合のメリットとデメリットを整理してみます。(なお、来年度の段階で重度脳性マヒ者等介護人派遣制度による介護料が月額にして40,896円程度は増額される可能性がある事、それに登録ヘルパーが週2回程度増える事を非公式情報により前提としてあります。だから「とらぬ狸」がとれなかった場合はここに書いたこと自体がほとんど無意味になる事もありえます。)

1の場合
 自分でひとを探す必要がない。特にウィークデーの昼間は他の人を探すのは困難なので、その意味は大きい。反面、時間が決まっているので融通がきかない。
 公務員のヘルパーどうしは職場を同じくするのでコミュニケーションがとりやすく、共通理解を得やすい。福祉事務所との連絡も日常的にでき、安心感も持てる。しかし登録ヘルパーは間に福祉事務所と家政婦紹介所というふたつの組織が入り、しかもヘルパー自身は個人の資格で来るので、話のゆきちがいが多く、チームワークがとれていない。これが並行派遣の問題点である。
 介助者グループの時間あたりの介助料については現在の400円から500円にする事が可能です。
2の場合
 公務員ヘルパーの利点はすベて享受できる。しかし、現在の登録へルパーの派遣回数がたとえ来年度から週2回程度増えたとしても、これを推薦制にすればそのひとを自分で探さなければならず、金額に換算してもそれほどの額にはならない。したがって推薦ヘルパーによる専従体制も考えにくい。
 介助者グループの介助料は、この場合時間あたり600円程度にはできそうです。
3の場合
 全ての介助を介助者グループに一元化し、金銭的にも自由な運用の可能性(全ての制度による介助料の月総額は471,026円)がでてくるが、公的ヘルパーの利点は享受できない。
イ) 介助者グループの介助料は時間あたりで650円程度にはできる。ただしこの程度では特にウィークデーの日中の介助者不足を解決する事はできないと思われる。
ロ) 介助者グループの介助料を今のまま据置にすれば、推薦へルパーに月額で137,970円と、重度脳性マヒ者等介護人派遣制度による介護料の増額分40,896円を加えて払うこともでき、専従体制をつくれる可能性もでてくる。

この他にもいくつかの方法が考えられます。どうか意見をきかせてください。

 

指揮棒を振らない指揮者

池本真理

 今は跡形もなくポッチャリしている私ではあるが、5年前まではプリマを夢見る小さなバレリーナだった。4歳の時から舞台に立ち、15歳でやめるまで発表会やコンサートなど十数回を数える。12歳の時、中国へ留学し、このような事では私が最年少という事で、新聞の取材を受けたりもした。しかし私の足は生まれつき丈夫ではなかった。1O歳の時に両足手術を行ったが、人並にも強くなれず、麻酔を打って舞台に立っていた時もあった。自分の体にも、そして才能にも不安を感じた私は15歳でトウシューズを脱ぎ捨てた。20歳になって振り返ってみると、今でも続けていれば派手な舞台には立てなくとも、それなりに踊っていけたのではないかという思いと、その反対に、あの時くじけてしまったのだから、どうせたいした者にはなってなかっただろうし、やめてよかったのではないかという思いとが重なる。
 そんな思いを胸に抱え、遠藤氏の所へ通っていたある日、テレビでバレエをやっていた。私は何も考えずに口から、「どうして私はバレリーナではないのだろう。」と言葉がでた。すると遠藤氏がそれに返すように、「どうして僕は指揮者ではないのだろう。」と言った。それは彼が指揮者に憧れていたのを知った最初のきっかけだった。私はとっさに考えた。指揮棒を持つことなく諦めざるを得なかった彼の指揮者への思いを。私ほトウシューズを履いていたにも関わらず、自ら脱ぎ捨てた。しかし彼は指揮台に立つことはもちろん、指揮棒すら振っていないのだ。夢とは時としてこういう形で人に失望感を与えるものなのかと考えざるを得なかった。
 しかし遠藤氏の夢は、お互い気付かないうちにかなえられていた。遠藤氏はそのことについて、先日、駒沢大学のコンサートに行って気がついたと私に話してくれた。そのコンサートは駒大の合唱部によるもので、大学生にしてはなかなかのできだったと遠藤氏は喜んでいた。しかしながら、まだ不十分な点もいくつかみうけられ、自分だったらああするのに、などと考えたと言う。そんなふうにコンサートを見ていると、指揮者とは本来一方通行であってはならないのだと気づいたと言う。つまり、見ためでは、作曲者が曲を作り、指揮者がそれを指揮し、オーケストラなり合唱団なりがそのように音を出す。一見流れは一方通行に見えるが遠藤氏はそうではないと言うのだ。指揮者は指揮棒を振りながらその場で出せる限り最良の音を引き出し、かもし合わせハーモニーをつくる。それは無い力を要求してまでではなく、その場での限界の音を、音楽を引き出すのだと言う。演奏者も指示通りではあるのだが、自分の出せる最高の音を他と調和しながら指揮者に返す。そして、指揮者は、作曲者に音をかなでて曲を返す。もしかしたら作曲者のイメ―ジとは違ったものかも知れない。しかし指揮者によって、もしその場での最高の音楽がつくれたのならば、それは作曲者のイメージに関わらず、いや、イメージを増大させてよりよい曲となってかえってくるのではなかろうか。 そう思った遠藤氏は、自分が介助者やへルパーさんや家族、友人、その他多くの関わり合いの中で指揮者として生きているのではないかと気づいた。周りで介助してくれる人に対し、無いものを要求するのではなく、その人が持っているすばらしいものを最大限に引き出し、他とうまく調和させ、メロディーをつくりだそうとしているのだ。
 夢とはこういう形でもかなえられるのだとおしえられた、と同時に持っていないものを要求されると無理がでるが、あるものを最大限にして出した時の自分の輝き、そしてそれらが合わさりあった時の力の素晴らしさをおしえてもらった気がした。この話を聞いた時、自分の人生への迷い、自分の持っている力の限界などにとらわれた自分をしばっていた鎖がはずれたような感じだった。生きるということは、そんなに力を入れなくても、自分を生かせばこれほど素晴らしい人生はないように思える。
 遠藤氏は指揮棒を持たずにべットの上で指揮者になったのだ。

遠藤からのコメント
 池本さん、ありがとう。この文章に書かれていることの中身からすれば余計なことになってしまうかも知れないけれど、あのときの僕の発言の意図は、実はちょっとだけ違ったところにあったのです。それをあえてここに自分の言葉で書いてみたい。
 駒大の合唱部のコンサートをききながら、ぼくはいい指揮者ってどういうひとなんだろう、とふと考えたのです。そして気がついた。
 ひとつ。合唱団の持っている技量以上のものを要求しようとしないこと。つまり「ないものねだり」をしないことです。
 ふたつ。そのうえで今持っている技量を最大限に生かすこと。隠れている力までみいだし、それらを引き出すことです。
 みっつ。これらをふまえたところで、曲についての自分の解釈をいかようにもかえられる柔軟性を持つこと。あそびごころを持つことです。
 気がついてみれば、それはなにも指揮者に限ったことではなく、全ての演奏家にいえることでした。ソリストは、それを自分ひとりでやっているだけなのです。音楽の場合、それは練習の中で行われるのでしょう。
 「ありのままのいのちを生かす」、とぼくが言うとき、具体的にそれはどういうことなのか、とよくきかれます。これはそのよい例えとして使えるのではないか、と思ったのです。
 また戻って音楽の話ですが、こういうひとであれば、結果としてその合唱団の力量もまちがいなく伸びてゆく。作曲者の意図にアプローチしてゆくことは演奏家としてもちろん不可欠なことですが、実際には解釈は一つであるはずがないのです。作曲家→指揮者→合唱団員という一方通行で演奏が成り立つのではなく、これらの人たちの間に相互の開係があってはじめて成り立つものだからこそ、音楽は深く、豊かで、面白いものになるのではないでしょうか。もちろん聴衆との間にも。
 もし障害がなかったら、なんてぼくは考えない。でも、ピアノとコーラスだけはできたらきっとやっていただろう、と思えてしまうほど、ぼくは音楽を愛しているのです。そんなぼくだから、思いついた例えでした。

 

盛り上がりすぎ、オールナイトに
 1995年の最後を飾る忘年会が年末の16日に開かれました。15、6名の人たちが参加し、大盛況でした。今年はなぜか圧倒的に男の割合が多く、そのためかそこここでやたらと議論の花が咲き、波状的に盛り上がっていって、ついにオールナイトと相成りました。でも、写真を見ると、あまりろくなことはしていなかったようで…。
 みなさん、アルバムはできるだけ見ない方がいいですよ。以上ご忠告まで。

 

ことばあそびうた選 その2 作・遠藤 滋

はげ

はげがいた
ひとめきにした
はばかった

はげばけた
はげばけてみた
たすかった

はげばけた
はげばけすぎた
けばかった

ばけはげた
ばけはげかけた
おしかった

ばけはげた
ほげばけはげた
こわかった

はげきめた
ばけるのやめた
すっとした


新人自己紹介
 例年なら六月頃に掲載していたはずのもの。引っ越し騒ぎなどに紛れて今ごろになってしまいました。
 ここに載せた人たちの他に、松尾康治くん、尾島省二郎くん、董成政くん、泉田紀子さん、林真理子さん、蔀守和くん、田口詩乃さん、工藤巧さん、三宅昌子さん、深野哲也くんが加わってくれています。追って自己アピールをお願いします。

 昨年11月末、ちよっとした拍子にベッドから落ちるという事故があり、しばらく安静を余儀なくされました。1年かかって住み家と道具立てがやっと整ったところだっただけに、出鼻をくじかれたような感じです。
 体の緊張やしびれが強いという後遺症はまだ完全には収まっていませんが、年を越し、気を取り直して、やろうとしていたことを再開しようと思っています。よろしく。(遠藤)