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  第17号
 
1991年8月1日発行

介助体制の立て直しにご協力を!

 もともと「のたれ死には覚悟」と始めたいまの生活。でも、このままだと本当にのたれ死にしてしまいそうな今の介助の状況です。
 この三月に卒業した人たちの補充がまだほとんどできていない。その中で、よくまあいまの時点までつないだとはいえますが、今年七十三歳の母への依存度は、確実に高まっています。
 ちょうどビラ作りやビラ配りのための準備をしようという頃、ぼくの体調が最悪の状態だったのが痛かった、ともいえるでしょうが、世の中の状況がすこしずつ変わって、ボランティアをしようというような学生さんが、全体的に少なくなっている、とも言えるのかもしれません。
 でも、だからといってぼくが介助者集めをあきらめる、というわけにはゆかないのです。まして伊豆の農場をやっと軌道にのせ、東京のどこかにケア生活館を建てるめどを立てようという時、なんとかここでもう一頑張りして、「ケア生活くらぶ」東京事務局の機能も果たせるようにしたいのです。
 そこで、ぼくはもう一度ゼロから介助態勢を作ってゆくつもりで、新たに自分の介助者集めに取り組むことにしました。ビラの文面も、既にできています。文字通りぽくのいのちのかかったこと。やたらあせってどうにかなることでもありませんが、とにかくしっかり、持続的にやってゆきたいと思います。ご協力をお願いします。
1)梅ヶ丘など、近くの駅の駅頭で、定期的にビラ配りをする。
2)現在の介助者、または協力者にできるだけビラを託し、まわりの人に渡して誘ってもらう。
3)機会をみつけて、近くの大学等でビラ配りをする。
4)いろんな人に、できるだけ遊びに来てもらう。
5)伊豆の農場、ケア生活館のことなど、ぼくらの計画について関心を持ってもらうような、大小のイべントを企画する。

 いま考えられるのは、さしあたってこんな当たり前のことばかりですが、他にもしよい考えがあったら、教えてください。
 持続こそ力。あわてず騒がず、なんとかいまの危機をのりきってゆきたいと思います。どうかよろしくお願いします。
 また、この際こちらがわからはとても切りだしにくいのですが、すでに社会人となっている、いわゆる「OB」の方、もし週末や休日等、たまには行ってやってもよい、という方がありましたら、ぜひご連絡ください。重ねてお願いします。
1991年7月15日

遠藤滋

「寝たきり中年」本音を語る
 自分ではまだ少年のつもりでいる。ことがらによってはとても傷つきやすい心をいまだに持ち続けているし、だいいち、女性に関してはじつはびっくりするほどウブなのだ。 笑われるかも知れない。でも、いま、ぼくの介助に来てくれているような年ごろの人たちからみれば、ぼくは明らかに中年の「おじさん」だ。しかもその「おじさん」が重度で寝たきりの障害者であってみれば、そいつが何を感じ、どんなことを考えているかなんてことは、考えも及ばぬことであるかも知れない。ましてそれが、世の中のほかのおとなたちと、どこが違い、どこが共通しているのか・・・。
 たとえば、ぼくのトイレの介助だ。ぼくは自分の介助者に、男女の枠を設けていない。だから相手さえよければ、女性にもこの時、手を貸してもらっている。このこと自体、いまのおとなたちの感覚からすれば、あるいは考えられないことかも知れない。
 妙齢のお嬢さんにトイレの介助を頼む時、ぽくとてー般的なひとびとの常識的な感覚を考えれぱ、決して恥ずかしくないわけはない。かといってぽくは自分のそういう感覚を殺しているわけではないし、ましてや自分が男性たることを捨ててしまっているわけでもない。ぼくとしてはただ、「伝家の宝刀」ではないが、ありのままのいのちを肯定する世界、いや、自信をもってそこに立つしかない自分の“いのち”そのものに、その時さっと立ちかえれるだけなのだ。そこではすべてのひとが親しい恋人のように思え、ぼくにとって一切の気遣いは消えている。あとはまったく、先方の受け取り方しだいなのだ。
 老人ホームなどで実習をしたことのある福祉関係の学校の学生さんたちには、さすがにそういうことにあまり抵抗感を示さないひとが多い。たしかに、よけいな気を使わなくていいだけ、ぼくとしても楽であることは間違いない。しかし、それはただ単に慣れっこになっただけであって、同じひとりの人間としてぼくを見たうえでやってくれているのかな、と意地悪をいってみたくなることはある。そこをきっちりくぐらないと、せっかくのぽくのすばらしい世界はみえてこないよ、といいたいのだ。
 これまで、女性に自分のトイレの介助を頼む、ということについては、ぽくとてそれなりの気は使ってきた。そういう場面をできるだけつくらないように気も配ってきたし、家にいる場合なら、ちかくに住む両親にいざとなればいつでも頼めるようにもしておいた。ただひたすらに相手を気遣ってのことだ。
 どうしても頼まざるをえなくなった場合には、その方が女性にも抵抗が少なかろうと思って、じつは本当なら男の場合は、小用ならしびんを使った方が楽なのだが、それでもわざわざ身体を支えてもらってトイレまで行き、便器に座らせてもらったことも何度もあった。
 それらのひとたちが、いま、どういうふうに自分を納得させ、あるいは割り切って、ぼくの介助に係わってくれているのか。それはぼくには必ずしもわからない。ぼくのいう“ありのままのいのち”のすばらしい世界を、すこしでもかいまみ、気づいてくれているのか。それとももっと手前で、単に技術的に割り切っているのか・・・?
 いずれにせよ、いまやぽくのところでは、トイレの介助を女性の介助者でもごく自然にやってくれるひとが多くなっている。だからといって、別にそれがどうということでもないのだが。

 ついでに、というわけではない。むしろこちらの方がこの際まともに語ってみたいことなのだが、つまりそれは男女関係、すなわち異性との関係ということについてである。 ぼくは一度結婚に失敗している。原因はすでにぼくにとってあまりにはっきりしたことだし、当初それがちっとも見えていなかった、ということを含めて、半分の責任はやはり自分自身にある、と思う。それがはっきり見えてきた頃には、もう、どうにもならなくなっていた。
 だからといって、ぼくはもう結婚にはこりごりだとか、障害も重くなっているし、もういい歳なのだから、そういうことは考えまい、とはすこしも思わない。むしろそれらの見えてきたことを生かして、すばらしい関係を、だれか、異性との間につくりたいと思っている。
 もちろん、さしあたって難しいことはある。でも、その難しさを跳びこえてしまえば、そのひとにとっても最高の関係を、ぼくとの間につくれるよ、といいたいのだ。
 では、その難しさとはなにか。
 ぽくはもう、けっして自分の相手にたいして、こういうひとでなければとか、ここはこうあらねばとか、そういう条件をつけることはない。こういうと、「女ならだれでもいいのか」などと混ぜっかえすひとがありそうである。
 ぼくが難しいこと、というのは、じつはこういう類の固定観念というか、思いこみを相手が捨てる、ということなのだ。
 「女なら、だれでもいいのか」という混ぜっかえしには、―応、おおまじめに「そうだ」と答えておこう。現にたいていのひとに、ぽくはいいところや好きなところを発見できるし、ちょっとしたことでも、すぐに率直に感激して、たあいもなく恋心さえ抱いてしまう。残念なのは、そのひと本人が、自分のそういうところに自信を持っていないことだ。いのちそのものが、どこか輝きに欠ける。
 いのちそのものが輝きに欠けるのは、そのひとがいろんな固定観念や思いこみに邪魔されて、ありのままの自分のいのちの姿に自信が持てないからだろう。「女性なら(男性なら)だれでもいいなどというはずがない」という思いこみ。それが、かえってぼくとそのひととの間をへだてている。
 あらゆる固定観念を捨て、自信をもって自分のありのままのいのちに立つこと。言いかえれば、それだけがぼくの相手のひととなる条件、といえるかも知れない。
 しかし、それはそんなに難かしいことなのだろうか?否! とぼくは言いたい。だがそれを言葉であれこれしていても、一向に埒はあくまい。ここは事実としてのあなたとの出会いに、すべてをゆだねるしかあるまい。
 かつて、ぼくは一見何からも自由にみえながら、かくありたい夫婦関係、のイメージを、確かに持っていた。それはオリジナルな関係を目指そうとする余り、今の健全者並の夫婦の在り方を、かえって逆の意味で強く意識したものであったかもしれない。
 家の中に介助者をたえず入れながら、かれらとの人間関係をも常に大切にしつつ、その中で成り立たせてゆく男女関係・・・。障害を持つがゆえに、かえって「人並みのあるべき夫婦へのあこがれを捨て難いかつての妻にとって、こうした現実、そしてこうした現実について語りあい、考えあうことそのものが、わずらわしいこと以外の何物でもなかったに違いない。その意味ではぼくは、どんどん「ねたきり」にちかくなっていってしまったぼく自身と、そこからまた新しく関係を出発させてゆけるひとは、彼女ならずとも、さしあたってそうはいなかったのではないか、とも思えるのである。
 いま、ぼくは「普通の」夫婦関係以外のなにかを目指さなければ、とか、そういった類のこだわりすらもまったく持っていない。それどころか、家の中に介助者を入れて、云々という観念さえももう捨ててしまった。
 もちろんさしあたって、形としてそういう姿をとることはあるだろう。が、介助者たちの住み家(建物)の中に、逆に一組の男女も生活している、というさまを考えてみるのも、なかなか面白いではないか、とぼくには思える。
 男女関係にしても、もっと多様でオープンであっていい。恋人同士だったらいつもいつも一緒、という必要もかならずしもないわけだし、たまにどちらかがどちらかを訪問する、というのも、なかなか新鮮で、いいではないか。ときに介助者面をして出かけて行って、じつはふたりだけの楽しい時を過ごして帰ってくる、というヤツがあっても面白いし、それがみんなの了解事項、ということになったら、なおさら面白い。
 要はおたがいにお互いのありのままのいのちをどれだけ生かしあえるかで、形はそれに合わせて一番いいように考えればいい。最高の「愛」(いのちをいとおしみあうことはそこからこそ生まれるのであって、そこに立たずして、たとえばセックスに他人(介助者)が介在できるか、というがごとき「難問」にもケリがつくはずはあるまい。異性を求める心、というのは、いったい、どこから生まれてくるのだろうか。それが、まず肉体的な要求であるのはもちろんである。ここをおさえないと、とくに障害者の場合、話がしばしば内容に触れないまま済まされてしまう。
 しかし、相手となる異性との間は、お互いにひとりひとりの人間である。だから、その人間同士としての関係がうまくゆかない場合には、結局はそうした欲求すらも本当には満たしあえずに終わってしまう。こう書けばごくあたりまえのことが、実際にはなかなかうまくゆかず、実にしばしば果てしのない堂々巡りを繰り返してしまっているのは、いったい、なぜなのだろうか?
 答えはもう、わかりきっている。要はその相手との人間関係が、お互いにありのままのいのちの肯定の上に成り立っていない、ということである。
 もう、多くは語るまい。しかしぽく自身は、たとえだれに笑われようと、あるいは不可能だときめつけられようと、みずからのいのちを肯定し、その上に立ってなお異性を求めつつ生きてゆこうと思っている。あとは結果を楽しみに・・・。
 もうひとつ。最初にぼくは自分がまだ傷つきやすい心を持っている、と書いた。あれは本当た。いのちの否定。そしてそれにつながる言葉には、自分に向けられたものでなくとも、もういやだ、沢山だ、と思ってしまう。やつらなら、と思える類の人たちなら、かえってもう、屁でもないのだが・・・。
 なんとか不当に、解ってほしいと思う。

(遠藤 滋)

3月4〜5日(月〜火)
 伊豆松崎の農場建設地ヘの旅行。
3月20日(水)
 ひと月以上前からの身体的不調、さらにすすむ。緊張が激しく、不眠が続く。また椅子にもなかなか座っていられない。
3月29日(金)
 心身障害児総合医療療育センターでセルシン(筋肉の弛緩剤)をもらう。
4月3日(水)
 ナムコが来て、ジョイスティックによる足でのパソコン(ワープロ)操作をやってみる。うまくゆかず。
4月12日(金)
 心身障害児総合医療療育センター整形外科で診察。
5月20日(月)
 足で操作できるワーブロ、ようやく入る。ねたまま出来るのはいいが、操作に非常に手間がかかる。
6月1日(土)
 ねたきりに近いまま、この頃から一応体調は安定してくる。介助者はなかなか増えず。
     近いうちに介助者会議を開きます。日時は決まり次第連絡いたします。できるだけ参加して下さい。

〜 へんしゅう こうき 〜
 暑い日が続きますね。皆さん、どうお過ごしでしょうか。夏休みということで、バイト、海水浴、そして就職活動、はたまた仕事と忙しい毎日を送っていられることと思います。
 さて、本当は若葉の季節に出る予定だった”えんとこ通信”17号は、遅れに遅れ、なんと暑中見舞いになってしまいました。本当にゴメンなさい。次号からはキチンと月ごとに作っていきましょう。
 ”えんとこ通信”では、原稿を募集しています。近況報告、体験談、記事への意見、詩、イラスト、マンガ、そしてバクロものまで、分野を問わず募集しております。よろしければ、コーナーを作って下さっても、自己紹介をして下さっても結構です。
 エンド氏の介助もヨロシクお願いします。

by のぶへろ