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  第15号
1991年1月1日発行

伊豆、その後

 あけましておめでとう。今年もよろしく!
 さて、今回はまず、ぼくらの伊豆の土地のその後について、紹介したいと思います。
 昨年夏の2度にわたる旅行の後、ぼくらは共同出資して、9月にショべルカー等の若干の機材を手に入れ、あの農場用地に搬入しました。
 秋にはいくつかの台風が次々と来襲しましたが、白砂さんはそれを避けるように東京へ帰って来ては、でも半分は伊豆にいるという生活を続けながら、ひとりで地ならしをしてきたのです。
 ぼくらの土地は、全体に南東に向いた、かなりの急斜面です。下からたどると、鋭く右にカーブした上り坂の狭い道路から左へと小道が分かれていて、それが約2,800坪のぼくらの土地を通っています。
 その、小道に沿ったはいりロに近いあたりで、山がわから土を崩してきて谷がわに落とす、といった作業が続きました。付近の甘夏の木や杉の木なども何本か切られ、また土どめの石組みも行なわれました。
 そして今、ついに80坪(約254平米)ほどの平らな地面が造成されたのです。

プレハブ建設
 そこにこの1月、やっとブレハブが建ちます。10日から基礎工事がはじまって、3、4日で終了。それから上を組み立てたとしても、月の終わりまでには出来上がると思います。
 早速電気と、そして電話はひくことになるでしょう。これでやっと農場造りの一拠点ができます。
 みなさん、ぜひ一緒に遊びに行きましょう。またここで作業を手伝いたい人、ここで何かをしたい人は、いつでも出かけて行ってください。
 下に、一応参考までに松崎から八木山までのバスの時刻表を載せておきます。バスの便がとても少ないからですが、でも八木山から現地までは、さらに2キロちかく歩く必要があります。
 白砂さんがいる時には、連絡があれば下田まで車で迎えにゆく、とのこと。
 ちなみに、伊豆急下田から松崎までのバスは、30分から1時間に1本の割合であります。
 今年3月からは、小田急とJRが御殿場線経由で、新宿から沼津まで特急の相互乗り入れを始めるそうです。そうなると、沼津から松崎までの船便も使えるようになる。このブレハブ、どうぞ生かして使ってください。

 なお、ぼくらの農場用地の所在は次のとおり。
静岡県賀茂郡松崎町岩科南側字小枕木片 3281〜3番


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 明けましておめでとうございます。新しい年を迎えていかがおすごしですか。昨年は、7年来の土地探しにピリオドを打ち、伊豆。松崎町八木山の地において、永年の構想である『ケア生活くらぶ』のスタートに向け、農場『いのちの社』の建設をはじめることができました。幸運にも、この土地から、焼物に活用できる粘土(近くに同じ土を使って焼物「岩科焼」をやっている人がいる)が出土しています。1990年9月14日よりはじめた士地の造成も年末までに約80坪ほどを平らにすることができ、1月10日より、いよいよブレハブ建設にむけ、基礎工事にとりかかることになりました。
 これまで、土地探しから、甘夏の販売、建設機械の購入、ブレハブの手配など、さまざまな形で、手を貸して頂いた方々には、ほんとうに感謝しています。今年もあわてず、さわがず、一歩一歩、人との出会いをひろげ(深め)ながら進めていきます。
 この作業に、他の人が専念する状況にまだなっていないので、当分は、わたし一人の労力で気ままにやる要素が強いので、至らないところだらけですが、本年もよろしく。
 時間を作って、伊豆の方へも遊びに来てみてください。

1991・1  白砂 巌

東海バス 八木山線  時 刻 表
松崎発
八木山着
  745
 802
 900
 917
1100
1117(土曜のみ)
1240
1257
1500
1517
1715
1732
1810
1827
八木山発
松崎着
 725
 742
 805
 822
 938
 955
1120
1137
1318
1335
1541
1558
1735
1752
1830
1847

 昨年度、行われた世田谷区恒例”雑居まつり”において、我々”遠藤滋&介助者グループ”の中で代表(実行委員)となり、活躍してくれたのぶへろくんからその感想が届いています。(本当にいろいろご苦労様でございました)

 1990 雑居まつり  寺尾 のぷへろ
  さ〜て、今年は何をやるのかなァ?” 夏の真っ最中、昨年の雑居まつりを思い出しながら人事のように考えていた。なぜなら、当日の10月7日はすでに予定があり、まさか係がまわってくるかかりとは思ってもいなかったのだ。それで心の準髄もないままに突然まわってきた大役にビピりまくるばかりだった。
 ”フライド・フルーツ”初めて聞いたときにはすごーく不気味な感じがした。そしていついにそれを食べる日がきた。リンゴやミカン(甘夏)などがその衣の下に眠っていると考えると複雑な思いだ。吟味の結果、リンゴ、ナシ、キウイ、パイナップル、メロンといった顔ぷれ(?)が残ったのは周知の通りだ。そして、さらにそれに伊豆でとれた甘夏のジュースがつくということだ。なんだがものすごいメニューだなと不安を抱いていると、エンド氏の「目立てばよい!」の一言で今年の雑居まつりの出しものが決定した。
 ”今年の雑居まつりはエコロジックにやりましょう!”なんて言われたからさァ大変。へタに使い捨てをしようものならとっちめられそうな雰囲気だ。コップを買い、食器を借りたりと”よ〜し、こりゃエコロジカルになったぜ”と安心しているともう祭りの前日だ。
 ジュースの量と味の調整が心配だけど材料や調味料やガスの手配はバッチリだよ。あとは、明日を待つばかりと午後3時頃思っていると”テレテン・チャンチャン。テレテレテレテケテン”とエンド宅の電話が鳴り響いた。受話器を取ると松原にプロバンガスボンペとコンロを取りに行った大野くんだ。「話がちがうんですけど」「は?」「ボンべは貸してくれるけどプロパン用のコンロはやっていないよ!」と半分あきれて半分怒っている彼の声が「1万5千円だせば、ポンベとコンロのセットを買えるよ」と言うと「ゲゲ!」と答えるしかなかった。その時点でもう出費が許されない状態であったため、他にコンロを貸してくれる店を探すことになった。大野くんは1時間ほど店で待っていたあげくに、用賀までコンロを取りに行くはめになってしまった。その節は大変御面倒をかけました。その日は夜遅くまで、エンド宅の台所では、多くの人達が夏みかんジュースを作っているのであった。
 さて当日! 10月7日だ。私は先述のようにこの日は用事があるので、その時間までみんなに伝えることを伝えようとやってきた。なんだか雨が降り出しそうだ。まだまだ準備ができていないところもあるし、いっそ雨が降ってくれて延期になればもっときちんと準備ができるぞ! なんて思ったが、エンド氏が7日にやりたいとおっしゃるので天気様もその気になって雨がふってきませんでした。ガスを設置したりしていると、まだまだやること伝えることはたくさんあるのですが、時間になってしまった。°みんな、後は任せたよ。マニュァル見てね〜!”と中途半瑠な引継ぎをして、去っていったのでした。
 後のことは、当日に頑張った人達のほうが詳しいでしょう。本当に私のいいかげんなことで多くの人たちりに迷惑をかけてしまいました。この場を使ってお詫びします。そして、来年の雑居も頑張りましょうネ!  おはり


ミカン畑に自立の果実 西伊豆

  身障者2人が農場造り

 東京と現地往復 構想10年で着手

 都内に住む二人の障害者が、伊豆半島西海岸の静岡県松崎町岩科に、ミカン畑を手に入れた。本当の自立を求めて、障害者と健常者が一緒に暮らす「いのちの杜(もり)農場」を造るためだ。構想から十年、土地探しを始めてから七年かかった。整地作業もはかどり、来年早々には、農場の拠点として、寝泊まりできる建物をつくる計画という。農場は会員制で運営する方針で、整地などの協カ者を求めている。
 二人は、文京区千石二丁目の白砂巌さん(43)と世田谷区松原6丁目の遠藤滋さん(43)。白砂さんは脳性マヒで左足が不自由で、脳性マヒの遠藤サンは車イスの生活だ。
 白砂さんは約二十年前に、文化庁がフランスの名画「モナリサ展」を開催したときに「混雑するので障害者は遠慮してほしい」という趣旨の発言があったのがきっかけとなり、様々な障害者運動とかかわるようになった。
 そこでぶつかったのは、能率が優先され、ますます障害者が置き去りにされる現状だった。
 −−障害者は、生きていく価値がないのか。いや、そんなことはない。障害者は、少し多く助けが必要だが、ありのまま生きるしかない。悩んだ末の結論は、そういうものだった。
 本を出したり、ミニコミを作ったりして訴え続けた。しかし、都会での運動は、生活と切り離され、現実感に欠ける一面がある。
 自分たちで畑を耕し、ろくろを回して食器をつくり、着るものも自分の手で作る。ニワトリを飼って、必要な道具を自分たちでつくるための工房も開く。そんな「いのちの杜農場」の構想がうまれた。
 土地探しは一九八三年から。翌年、遠藤さんに出会ってから、計画に弾みがついた。白砂さんは勤めていた写植会社も辞め、伊豆を中心に、候補地を車で探した。ようやくことし四月に松崎町のミカン畑約九千五百平方メートルを手に入れた。坪数千円。購入費はニ人で分担した。 柱にビニールをかけただけの小屋を建て、重機やチェーンソーを買い込んでの整地作業に入った。一週間いては一週間はアルバイトに東京に帰るという生活を続けた。
 不自由な体での素人仕事。今はまだ、急傾斜のミカン畑に、拠点となる建物が建つスペースが出来ただけだ。ここに泊まれるようになれば、畑作り、水引き、風力発電と、構想が徐々に具体化していく。将来は図書館や展示室なども造り、交流の場としても活用したいという。

 上の写真のおじさんは、皆さんもよくごぞんじの白砂さんです。
 この記事は、朝日新聞東京版1990年12月29日付のものです。その3日前の26日に朝日新聞静岡版にも同じ様な記事が載りました。(遠藤さんいわく”東京版に載るなんて、よっぽど記事がなかったんだな”ということですが)
 ちょっと驚き・・・ですねェ。

<酔いどれ少年 夢日記>
12月3日(月)
 小山洋子さんの、遠藤宅での実習、始まる。
12月9日(日)
 大掃除。
12月11日(火)
 足で打つワープロの件で、補装具研究所へ。
12月12日(水)
 ワーブロ、特注いすの費用の支給の件で、ケースワーカー訪れる。
12月17日(月)
 洋子さんの実習、終わる。
12月19日(水)
 洋子さんの実習終了にあたり、サンシャインの小笠原先生と宮原先生、訪れる。夜、部屋で転び、けが。外科で左まゆを3針縫う。
12月25日(火)
 医科歯科大学病院へ。午後、補装具研の職員が訪れ、ワーブロを足で打つしかけを研究してみる。
12月26日(水)
 忘年会。

 会計の任期が切れようとしています(というかもうすでに切れているんだけど)。
 誰かやる人いない?
 今はけったいな山田くんがやってます。