支援費制度の導入について

 「措置から契約へ」という美しいかけ声のもとに、障害者への施策として、来年度(2003年4月)から支援費支給制度が導入されるまで、あとわずか半年となりました。
 これは今までの措置制度としての介護制度を全廃し、かわりに支援費なるものを支給して、障害者が必要とする介護や家事等を、本人との自由契約のもとに、民間の指定事業者にまかせようというものです。やがては、介護保険制度との一体化が図られるようです。
 この制度は、そのおおもとのところに、大きな問題を持っています。憲法に保証された基本的人権、中でもその根底となる生存権に関する視点が、欠落していることです。
 これまで、ぼくを含めた障害者たちは、30年以上もかけて、その措置制度としてのいくつかの介護制度を、行政の責任として、少しずつ整えさせてきました(東京都世田谷区)。各自の実情に応じた選択肢も、確実に増えています。今のぼくの生活も、その上にやっと成り立っている…。
 たとえば、自分が推薦した何人かの介助者を区に登録し、そのひとたちに役所から介護料を支給してもらう。実際にはそのままでは日に16時間分にしかならないので、その総額を24時間で割り、時間あたりの介助料は少なくなっても、介助者グループ全員に再配分する、という形…。これはぼく自身が選択してきたやりかたです。このことは、役所とも暗黙の了解事項でした。
 ところが、支援費制度になると、支給される費用はすべて指定事業者に支払うことになってしまう。いま来てくれているボランティアのひとたちには、一銭も払えなくなってしまいます。
 しかも役所側は、「福祉サービスを現在の水準以下にはしない」と言っているようですが、それは結局金額に換算したところでの話で、支援費制度による諸サービスは、そのひとつひとつが具体的な内容に応じて、それぞれにいくつかの違った指定事業者との契約によって別々に行われることになる。同じ時間帯に重なることだって、ありえます。
 ですから、とても一日24時間をカバーできるようなものにはなりえません。そもそも指定事業者から派遣されるひとがいない時間帯はいったい、どうすればよいのでしょうか。だいいち、指定業者と契約したサービス内容以外のことは、一切やってもらえない、とも聞いています。いったい、毎日のほとんどの時間は、どうしていればいいというのでしょう。呼吸だけでもしていればそれでいい、とでもいうのでしょうか?
 いくら「行政からの押し付けではなく、自分の意志で自由に介助を選択できる…」、「市場原理の導入によって、サービスの質が向上する」というふれこみでも、介助が必要なほどの障害者で、そんなに高額の所得を得られるひとなど、まずいないでしょうから、家族がよほどの大金持ちでもないかぎり、これが文字通り自由に利用できるひとなど、ほとんどいないでしょう。それどころか、その自己負担分は、本人やその家族に大きな重荷となって返ってくることは明かです。それでも、これを利用する以外に、なくなってしまうのです。
 障害は、いわゆる「競争社会」では、いわば大きな負の要因です。これを補うために、同じ「自由競争」の原理を導入するのは、とんでもない論理のすり替えであり、もって生まれたそのひとの“いのち”を否定し、愚弄し、食い物にする行為以外のなにものでもありません。
 もともとが、バブル崩壊後、なかなか立ち直れない経済状況の中で、目減りした歳入を補い、歳出を削減するために考え出された方策の一つです。それをどう言い繕い、飾り立ててみても、衣の下に悲しい鎧が見え隠れするのは、これまた自然なことかもしれません。
 生存権の否定…。あえてそう言わざるをえないぼくの真意が伝わったでしょうか?
 指定事業者となられるみなさま、ご苦労さま! 本当にこれが事業として成り立つのかどうか、とくと見せてもらいます。ところでぼくは…?

2002年10月01日