殺(あや)める

花田春兆

  「支援」とふ名をし付けたる法のゆえ母は殺(あや)めし障害の娘(こ)を

 この春自立支援法が施行された折、寝返りするにも国の定めた基準額を払わなければならなくなるのか、というショッキングな短歌を引用させてもらったのを、覚えて居られる方も多いと思う。
 その作者遠藤 滋君の親友で、彼に作歌を勧めたその道では先輩の大津留 直君。同じCPで、“光明”の同窓だが、ドイツ哲学を専攻し、大阪の大学で講師を勤めている。その大津留君からのEメールの中で、私の目を釘付けにしたのが、この一首だった。

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 そう、経済的な費用負担の増加と、実際の介護に関わる心身両面の負担と不安に耐えかねての、親子心中・親殺し・配偶者殺し・子殺し・・・、今年になってそうした救いのないニュースの増加が、複数の解説者の口からも指摘されている。
 こうしたニュースは何時の世にもあったとは思うが、こうも頻発するのは、それこそ前の記憶が薄れもしないうちに、次ぎの事件が連鎖的に報じられるというのは、記憶にも記録にも思い当たらないような異常事態。ただならぬ世に違いない。
 それが、家族介護の解消・軽減を期待する家族たちの後押しをテコに、成立した介護保険制度、そして、親の生前・没後に関係なく地域での生活の維持を掲げた本人たちの願いを、キャッチフレーズに横取りして内容も定まらぬままに強引に見切り発車させた自立支援法。
 この一見理想的ともとれる二つの施策によって招き寄せられた現実なのだから、なんとも見事な皮肉としか言いようがない。
 もっとも、皮肉や看板の偽りに怒りを感じるのは、私たち当事者、つまり被害者だけであって、為政者にしてみれば最初から当然の中身であり、実施担当者にしてみれば上から下へ流すよりない現実なのだろう。昨年の郵政選挙(まさに優生万能を決定付けた選挙と思われてならないのだが)で、政権党を圧勝させてしまった一般社会という不可解な怪物?にも、共鳴を期待するのは難しそうだと覚悟するしかないのだろうか。

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 安楽死させるという言葉で美化されてしまう親子心中や障害児殺し。それらが社会問題としてクローズアップされた時期があった。と言っても現在ほど頻発はしていなかったはずだ。1960年代から70年代にかけてのこと。当時の福祉先進国イギリスで障害児殺しの親が無罪?となり、それを公然と支持する社会的影響力を持つ有名人の言説が物議を醸したりして、グローバルな波紋を拡げてもいた。
 そうした福祉指向が根付き始めた40年前を思い起こさせる状況に、結局振り出しに戻ってしまっただけではないか、40年間私たちが闘って残して来た実績は何だったのか、という虚しさが拡がる。
 しかし、その反面も用意されていた。必然が生んだ偶然というのだろうか、発刊されたばかりの『しののめ』109号に、その40年前の“青い芝”と〈しののめ〉を軸とした安楽死反対闘争を、克明に追って論及している人の寄稿が載ったのだ。大谷いづみさん。立命館大学大学院生だ。
 私自身が忘れたり、意識していなかったり、誤認していたことが見事に発掘され再現されている。 私たちの生きてきた証が、歴然とそこに刻まれているのだ。人生まんざら捨てたものでもなかったかな、そんな満足感さえ湧く。

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「その当時のものには、遺しては逝かれないという相手への思いやりも感じられるが、現在のそれは、途方に暮れた自分だけしか視野にない自己中心性が見えて仕方がない。それだけ世の中全体が切羽詰って、ゆとりを失っているのか」 読者の一人は、シビアにこう指摘した。
 こうまで生命そのものが蔑ろにされている日本なのだ。健康で文化的生活など云々する遥か以前の問題。先制攻撃論まで飛び出して無視された九条とともに、二五条もまた機能を著しく阻害された状態にある。リハビリテーション(復権)されなければならないのは、まさに日本国憲法ではないのか。

 「パラボラ」8月号より