映画「奈緒ちゃん」概要
筆:遠藤 滋
『奈緒ちゃん』という映画の魅力の一つは、”西村家、つまり奈緒ちゃんの家の四人の家族の誰に注目しても、それぞれにおもしろい”、ということです。
まずはお父さん。脚本家・山田太一の紹介文の中では「影の薄さ」などと書かれていますが、これがなかなかどうして。とてもいい味を出しているではないですか。
はじめのほうの朝食の場面では、背広の袖が短いのに気がついて、「腕がまだ成長しているんだよ」などといってみたり、奈緒ちゃんを静岡の病院につれてゆく途中の高速道路上で、正面にきれいにみえる富士山を前に、「今日は天気が良くてすがすがしいな」と言っておいて、「これで車がもっと大きかったら最高やけどね」とつけ加えてみたり。
圧巻は、いささか分の悪い夫婦の間での言い合いの後の場面です。家の前の公園での夏祭りで、カラオケ大会に出場しての「絶唱」では、機械のせいか、イントロのところですでに音程が揺れている。それもあってか出るべきところで出遅れて、それにもめげず真剣な顔で最後まで歌いきってしまう度胸がこれまたすごい。音楽学校出のお母さんが、それに惜しみない拍手を送っているのも、ケンカの場面の後だけに、なかなかユーモラスです。
次に弟の記一(のりかず)くん。映画の最初のほうで、チャボの卵がどうしたとかいって、お母さんの周りでちょろちょろしていた彼が、またたく間に大きくなっていって、最後の場面ではなかなかの好青年になっている。それは映画の中では出番がそれほど多くないからでもあるのですが、それにしてもめざましい成長ぶりです。お父さんとはまた違った存在感もあります。
雪の積もったすべり台の例の1カットの後で、うぐいすの声とともに、一年生になった彼の晴れ姿に場面が変わります。にっこり笑うと、前歯が二本、抜けている。おかあさんといっしょに入学式に向かうところが続いてスクリーンには映って、そこにお母さんの語りが入る。「奈緒ちゃんをいじめちゃ、いけないんだよ」と子供たちの前に立ちはだかって、かばっている彼の姿についてです。見ていて、思わず涙が出てしまった、とお母さんは言います。
奈緒ちゃんの十六歳の誕生パーティーの場面。彼が奈緒ちゃんに贈ったウサギのぬいぐるみのセンスのよさはもちろんですが、ここでお父さんがまた変なことを言い出す。記一君の誕生日が四月十四日だという話題になって、「あまり縁起が良くないな。四月の四だろう、十四の四だろう。四が重なっている」と。ここですかさず彼は言い返すのです。「でも、シアワセってこともある」と。
最後に出てくる彼は、本当にかっこいい。背も、お父さんを追い越しています。
さて、その次はお母さんです。これはもう、準主役。なかなかの美人だし、声もよく通ってきれいです。奈緒ちゃんを育ててゆく過程で、お母さんも変わってゆきます。
映画のはじめに近いところで、お母さんに自分が書いた手記を読ませるという形で、奈緒ちゃんの初めての発作の時の様子が語られています。さぞ不安だったでしょう。どこにでもある、ごくふつうの家庭に起こった、突然の出来事です。映画では朗読するお母さんの姿の間に、公園の風景やそこにある樹々の木漏れ日が地面の上で揺れているカットなどをはさんで、それをフォローします。
多動の奈緒ちゃんを、登校時に毎朝学校まで見届けるのは、たしかに大変だったでしょう。「車は?」「こない、こない」「…来たじゃない」などと奈緒ちゃんと格闘に近いやりとりをしながら、来た車の運転手にむかって急いで笑顔を作り、愛想よく「おはようございます」と頭を下げるお母さん。見ていて、思わず笑みがこぼれてしまいます。
お母さんは、もともと積極的な人だったのかもしれません。障害児を抱えても、決して家を閉ざさず、自分の持っているものを生かしてピアノ教室を開く。そこに通ってくる子供たちを中心に、近所の子たちを家に呼んで、ひな祭りの会を開いて奈緒ちゃんをその中にとけ込ませようとする。
奈緒ちゃんの通う小学校の養護学級のお母さんたちと、やはり自分の家でおしゃべりをしながら内職仕事をする、というのも、なかなかできることではありません。
単に公園で近所の子供たちと遊ばせる、というだけでなく、奈緒ちゃんに近所の家々へのパン配りをさせるというのも、なかなか積極的で、よく考えたなぁと思います。「この公園があったから」とか、「知らない子や、知らないお母さんたちが奈緒を見て、こんにちは、と声をかけてくれる。これはすごいことだなぁと思うのね。奈緒は私やお父さんだけが育てたのではなくて、地域の人たちみんなが育ててくれたんだと思う」などと謙虚に言いながら、その出発点で、近所の子供たちや大人たちに我が子の持っている障害についてしっかりと正確に伝えようとすることを怠っていないのです。
そしてこうした「意識的」な活動の中で、お母さん自身がますますきれいになってゆく。映画の終わりのほうになって地域作業所が実現する頃には、さすがにすこし老けたなぁ、と感じさせますが、この、お母さん自身が自然に輝いてゆくというのは、不思議なことです。苦労を苦労のままで終わらせていたら、とてもそんなことが起こるはずはありません。
ただ、映画を観ていて多少の引っかかりを感じるところがないではない。日本てんかん協会主催の合宿で、山中湖にゆく場面があります。集会でお母さんは、「同じ障害児なら、愛される障害児に育ててやろう、ということをモットーにしてやってきました」と発言します。また、その後で奈緒ちゃんを担当したボランティアの学生に向かって語るお母さんの話は、意外に古風です。奈緒ちゃんを結婚させたいという期待について語っているのですが、炊事や裁縫など、「女がするようなこと」は一通り身につけさせてやりたい、というようなことを言うのです。
そういえば、お母さん自身が朝、出勤前のお父さんの靴を磨いているシーンが映画の始めと終わりに出てきました。いまどきの夫婦で、なおこれが当たり前のことなのかどうかはわかりませんが、お母さんはそういう生活感覚の持ち主なのです。
障害者運動をやってきた人たちから、「なぜ障害者だからといって“愛され”るような存在にならなければならないのか」という声が聞こえてきそうです。また、女性の地位について考え、取り組んできた人たちからも、何か一言ありそうです。私もまた、これが奈緒ちゃんの将来を枠づけるような方向で働いてしまうのではないか、と気になります。
でも、この映画の中では、それはむしろよい方向に働いているようです。のびのびと育っている奈緒ちゃんからは、何の屈折も感じられません。それは、お母さん自身が大きく揺れながらも、結局はありのままの奈緒ちゃん本人を、受け止めざるを得ないし、またそうしているからではないでしょうか。奈緒ちゃんを育てながら、その実お母さん自身が大きく育てられてきた、ということなのでしょう。
さて、その次はいよいよ奈緒ちゃんです。
奈緒ちゃんについておもしろいと思うのはカメラとの関係です。いくら記録映画といっても、ほかの人たちは明らかにカメラを意識しています。意識しながら、日常生活を演技しているようなところが、どうしても出てきます。
そういうぎこちなさが、奈緒ちゃんにはまったく感じられない。カメラはカメラでしかなく、その後ろにいる人たち、つまり演出家やカメラマンにまで、自由に声をかけてしまいます。だからこれらの人たちは、カメラの後ろに隠れてはいられない。これが、この映画全体の新しい可能性を、巧まずして引き出しているようにも思えるのです。
言葉のうまく使えない奈緒ちゃんは、かえってそのせいかあらゆるものと交感します。それを一番よく表しているのは、例の、山中湖でのシーンです。湖岸で水とたわむれている奈緒ちゃんの姿が、水音(みずおと)の音響効果と相俟って、とても印象的にとらえられています。映画全体が季節にこだわってつくられているのも、その意味で効果的です。
水といえば、それ以前に、夏の水泳教室で、奈緒ちゃんがはしゃぎ回っているところがありました。先生たちの言うことなど全く耳に入らない。何を言っても奈緒ちゃんのしたいようにさせるしかない、とわかった上で、あれこれいっているようにも見えました。「奈緒ちゃんは水が大好きです」というナレーションがここに入っていたからこそ、山中湖でのあのシーンも納得できたのです。あちらが静なら、こちらは動とでもいったところでしょうか。
映画のもっとはじめのほうに、お母さんが家で企画したひな祭りの集まりの場面があります。奈緒ちゃんは途中で、ひとりで外にぬけだす。道路の側溝の水の中に両手で大きなボールを持って、入れたり、また出してそれをコンクリートの上になすりつけたりしているところがとらえられています。「みんなと遊ぶのがあまり得意ではない奈緒ちゃん。病気のせいなのでしょうか」とナレーションにはありますが、このときの奈緒ちゃんの気持ちがそのまま分かるという人はきっと多いと思います。何となく、似たような経験を持っている人は決して少なくないはずです。
ともあれ、はじめに登場したとき、あんなにあどけなく、また頼りないほど小さかった奈緒ちゃんが、映画の最後のお寺参りの場面では、実に堂々としている。一家四人で拝殿の前に立ったとき、奈緒ちゃんは「あったかい!」というのです。
本当はこれがすべてを表現していたのかもしれません。お日さまが暖かかったのか、家族の愛があたたかかったのか、それとも着ている衣装が暖かかったのか…。それはわかりませんが、仏さまには十分通じたはずです。
ところが、お父さんやお母さんから、「なんて拝んだの?」「ちゃんと拝んだの?」としきりと言われるものだから、「わかんなーい」などと言った上で、困ったあげくに「後で電話するからねっ、て」と答える。名言です。
それでもお母さんは型どおりに合掌させて、「二十年間どうもありがとうございました。これからも無事に暮らせますように」というようなことを言わせようとします。思うに、奈緒ちゃんの世界は、このときすでにお母さんが思っているよりずっと大きく広いものになっているのです。言葉を越えて、すべてのものと交感できる世界…。
お母さんはいつまでもお母さんなんだなあ、と感じて、ついほほえんでしまいます。お母さんがせっつけばせっつくほど、奈緒ちゃんお得意の例のとんちんかんな言葉が出て、幕。これは笑わせます。
それにしても、「ありのままのいのちをいかして生きる」などとわざわざ言うまでもなく、奈緒ちゃんはそのとおりに生き続けています。まったく、脱帽です。
この映画には、ほかにも魅力的な人々がたくさん出てきます。養護学級の仲間たちや、公園で奈緒ちゃんを仲間に入れて遊ぶ子供たち。そしてお母さんたち、等々。
奈緒ちゃん、あなたとあなたをとりかこむこんなすばらしい世界と出会わせてくれて、ありがとう。奈緒ちゃんの家族や、これらの人々に、万歳! そしてなにより奈緒ちゃんのありのままのいのちに、乾杯!
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