『えんとこ』はファーストシーンから居心地がいい 四宮鉄男(映画監督) 〜前略〜 『えんとこ』はまったくストーリーのない映画である。 そして、ストーリーのない映画は大好きだし、ある意味で私の理想の映画の形態である。ストーリーがないと、観客である私は、ゆったりと画面に身を任せて映画の流れにたゆたいながら見ていくことができる。反対に、ドキュメンタリーなのにストーリーがあると、なにか追い立てられるようで、どこかへ強制的に連れていかれるようでいゃなのだ。 『えんとこ』にはストーリーがないが、100分間、スクリーンに揚め捕られていた。 『えんとこ』は、決してエンターティメントではない。しかし、決して息苦しくはない。むしろ突き抜けた明るさがある。なんと言っても、遠藤さんの笑顔がいい。しっかり生きていると50代の男でもこんないい顔ができるのかと感動した。 確かに、『えんとこ』を見ていると、〈お前は本当に今を生きているのか?〉と問いつめられてくる。叱咤されたり、励まされたりもする。しかし決して人に厳しい映画ではない。それが伊勢さんらしさなのかな、と思ったりもする。それで、見ている私は救われる。遠藤さんの生きるための奮闘ぶりを、言い訳をしないで見ていられるからだ。〈正義〉の前で言い訳をしながら映画を見ることほど辛いものはない。 〜中略〜 『えんとこ』の遠藤さんは寝たっきりで実に豊かに自立していた。〈自立〉って、みんなと一緒に生き、みんなの中で生き、地域で生き、社会の中で生きることなんだなぁと、ごくごく当たり前のことが、今更のように再認識させられた。 遠藤さんは若い介助者たちのネットワークに支えられて、豊かに自立していた。そして連想するように、「ペてる」のメンバーたち・の生き方に思いを馳せていった。「ぺてる」のメンバーたちが、〈浦河〉という地域の中で自立していることの大事さをあらためて認識することができた。 そう考えてくると、『えんとこ』って、自立した遠藤さんの物語だけど、自立した介助者たちの物語でもあるんだなあと気づいた。「えんとこ」の介助者も、介助者のネットワークの中で生かされているんだもの。遠藤さんが寝たきりで良かったなあと、思う。それは、「ぺてる」の坂本さんが「今は精神障害者であることを誇りに思う」と語ることと同じ構造にある。 遠藤さんが寝たきりだったから「えんとこ」と出会うことができたのだし、遠藤さんが自立して生きるために戦っていたから、介助者も自立した介助者になれたのだった。 『えんとこ』では、観客も自立した観客であることが要求される。というのも、『えんとこ』にはスーパーインポーズがない。遠藤さんの言葉はただでさえ聞き取りにくい。それがフィルムの端の細いモジュレーションの中に収録され、映写機の小さなスピーカーで再生されるともっと聞き取りにくくなる。それでも伊勢さんは、頑としてスーパーインポーズしない。きっと私なら、分かりやすくするために、たっぶりのスーパーインポーズを入れただろうと思う。 〜中略〜 『えんとこ』では、ただ生きている姿をただ見せていれば良かった。それが、〈ただ生きる〉ということを伝えるための最善の方法だったからだろう。『えんとこ』は、エイガエイガしないで、それでいて、いかにも映画的な世界が構築されている素晴らしい映画である。 〜「別冊映像ひとり新聞」 第9号より抜粋〜
編集部<注>
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